王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(3)
この場の容保にとっては必要ではない。(67)
足利木像梟首事件です。大庭恭平がもどってきて「それがしがやりました」って言うシーンです。容保クール。七年史によると「そなたの罪は今、糺すべきではない」と言ってお金をあげて、つまり「逃げよ」ということですが、大庭恭平は仲間にことが漏れたことを伝えて一緒に捕まります。捕まったときに詩をよみました。
「心なき 野辺の花さえあはれなり 今年限りの 春と思えば」(七年史)
同じ司馬遼太郎の「幕末」という本に収録されている「猿が辻の血闘」という小説ですと、大庭恭平はこのあと姉小路公知を襲って自害したことになってますが、会津戊辰戦史に大庭恭平の名前がいくつか出てきますので猿ヶ辻の血闘は創作ということになります。
続きを読む慶応元年閏五月二十二日 – 将軍参内に合わせて参内する
二十二日、将軍家は入京し、参内された。わが公は先だって参内し、これを迎えた。聖上は小御所に出御あり、将軍家は進んで竜顔を拝し、去年以来、しばしば勅召があったのに、入観の遅緩した罪を謝し奉った。
聖上は親しく恩諭の詔があり、且つ「一橋中納言、会津中将、桑名少将は長らく京師にいて、よく人情形勢を知っている。卿はよろしく百事をこの三人に諮詢し、特に長防のことは遺筧なく処理して、朕の意を安んじよ」とのことであった。将軍家は謹んで、これを奉じた。やがてまた御学問所に召され、恩待数刻におよび、その優渥なことは、前年と変わらなかった。(中略)
天がようやく暁になる頃になって退朝された。わが公はつき従って、二条城に詣った。
将軍家は今回の恩眷に対して、感銘の情が辞色にあふれていた。わが公もこれを拝聴して、感泣し「よって長く在坂され、長防の処置を決死、また諸般の革新を成就し、宸襟を安んじ奉らないうちは、誓って東下されることのないように」と梱々と上言した。将軍家は大いに然りとし、老中以下、席につらなる輩も、一人として異議を言うものはいなかった。(京都守護職始末2-166)巳半刻過著衣冠奴袴参仕又関白右大臣尹宮常陸宮内大臣一条九条等両大納言被参会、又一橋中納言会津中将其外武士等参上有。(続愚林記1-237)
九ツ半時比施薬院江被為成。同所玄関上に而御下馬被遊。同畳之上に而松平肥後守、松平越中守御出迎に罷出居。(徳川実紀5-225)
九ツ半(お昼13時頃)に将軍が施薬院に到着し、玄関で馬をおりました。容保は弟の定敬とともに施薬院内の室内で将軍をお出迎えします。さらに兄の尾張の徳川慶勝、そして一橋慶喜も挨拶にやって来ます。それから将軍は食事、お風呂、衣冠に着替えて、陰陽師に祈祷してもらってから勅使を出迎え、深夜0時頃に衣冠に奴袴という服装で将軍が参内します。
続きを読む元治元年二月十一日 – 容保、京都守護職を罷め、陸軍総裁となる
二月十一日、幕府はわが追うの京都守護職を罷めさせ、陸軍総裁職とした。越えて十三日、さらに軍事総裁職と改め、左の内命があった。
この度、毛利大膳大夫父子へ御糾問の筋これあり。万一承服せざる節は、御征伐あそばさるべき思し召しに付、その節は副将として遣わさるべく候間、用意致すべき旨、御内意仰せ出され候事。(京都守護職始末2-19)昨十一日、御小納戸溝口飛騨守殿、御使として御出被申候にては、御様礼御親く被為聴召度思召に而御内々御懇に御尋被遊唐銅御火鉢一対鴨一番拝領被仰付候旨被申猶被申候には御面会可致義に候處、追々御快方に被為仰付候御礼仰上候御都合の由(以下略)(会津藩庁記録-密京江往返控2-110)
事の発端はこれです
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