京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶応三年一月十五日 > 第二次長州征伐中止に反対する

松平肥後守、松平越中守に命じ、解兵の公布を朝廷に奉請せしむ。肥後守は再征の主張者なれば、解兵の不可を争ひたれども、用いられざるを以て怏々として楽しまず(慶喜公伝3-321)

 

慶喜は、国喪のために長州征伐をとりやめるために、容保の所司代弟定敬を呼んで、長州征伐中止を朝廷に上奏するように命じました。

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王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(1)

幕末が好きになったきっかけは、やっぱり「燃えよ剣」なので、司馬遼太郎さんは好きです。歴史は幕末と戦国が好きなのですが、幕末と戦国時代の司馬遼太郎の本は全部読みました。

 全部ホントのことみたいに思ってて、後から「えー!」ってびっくりしたりしたのですが、史料を読もうと思ったのは、王城の護衛者で一番大好きな「シャケ」の話が作り話だと知ったのが大きいです。

 司馬遼太郎さんは古老の目撃談とかカットインしてくるからさ、なんかホントかなって思ってしまう。

 

そこで、王城の護衛者を史料と一緒に読んでみようと思います。カッコ内のページ数は新装版のほうです。

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慶応二年三月五日 > 帝から体調を尋ねられる

三月五日、会小野権之丞参る。今日肥後守参候而も不苦哉尋問に付不苦旨返答に及び候事。

松平肥後守入来。小笠原壱岐守よりの書面持参。所存尋に付、関白慮如何尋候ところ、三藩参内国事掛一同列座に而申入る可宜旨一橋へ御返答旨。於予も同様之事と答畢。心祝も有之に付、広間之者、次邉迄様酒を遣うたい少々有之酉半頃帰、畢内々鰻子五つ到来候事。朝彦親王日記下巻-3)

 第二次長州征伐について、帝への嘆訴(筋の通らない嘆願を御聞き入れにならないで頂きたい)についての計画です。このプランは慶応二年四月六日、小御所にて実行されます。孝明天皇紀212-17)

 

話題が二つあります。

 

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慶応三年四月二十八日 – 慶喜からお見舞い

二十八日、大将軍は侍医香雲院に命じて肥後守が疾を訪はしめられければ、香雲院は帰りて其病状を言上しけり。(七年史15-44)

 

将軍慶喜は、御典医の香雲院に命じて、容保の病状を拝診させました。香雲院は診察だけして、帰ってから慶喜に病状を伝えます。将軍は板倉周防守を通して会津公用人に「肥後守がよいならば、香雲院に命じて薬餌を処方させよう。が、強いて病を治せとは言わない」つまり、ゆっくりやすみなさいということなのです。容保はその配慮を喜んで、薬を処方してもらい、日に日に軽快に向かったそうです。

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元治元年四月十五日 > 家茂よりお見舞いの使者

御小姓頭取木村紀伊守殿、御使を以従
公方様、左之御直書丼御脇息壱、ギヤマン壱、御煮染五品入 御拝領被遊御用人及応対御礼如例取計候由、右御書内蔵助被召出候節、御下遊江戸会津へ申遣之御使者

御口上之趣 密事往返控ニ有之

不調之時令昨今之容躰、如何哉。朝夕心配致候。療養無油断何分にも気力引立一日にも早く快復之上是迄之忠勤不空様、為国家祈處候。猶委細側向より可申聞候事。
卯月十五日     (花押)         会津中将との会津藩庁記録-軍事総裁戦中御達丼伺控-139)

 

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文久三年四月十一日 > 石清水行幸、発駕

十一日、攘夷叡願の事を以て石清水社に幸す。孝明天皇紀157-6)

 

四月十一日五つ過、御表くし御児にて言上有。御清き御湯めされ御下はかまにて朝餉へ出御成。行幸の御もよふし御ふく高くらのかみへ新内しのかみわたさる。常御所下段にてわたさるる。御するすると五つ過南殿へ出御成。劔新内しのかみ璽内侍御無人に付、権すけのかみなり。供奉伊予のかみ丹波のかみなり。母屋御す 大すけのかみ御す 関白はなり。御するすると御機嫌よく五つ過行幸成。
いなりの社御小休。城南宮にて御中食。淀姫社の御旅所にて御小休。八幡下院にて御束帯めされ て馬場殿代豊蔵坊へ著。御戌の刻過著御後御機嫌よくおするするとなり。
御留守中、二条右府は中務卿宮は御留守に御参り。
丑の刻、御拝御するするとの御事言上あり。(長橋局日記)

 攘夷祈願の石清水行幸が発駕しました。


容保は喪中(美濃高須の実父、松平義建文久二年八月二十日)だったので、加茂行幸と同様、参列は憚りました。

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