京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年一月十八日 – 風邪で寝込んでいたら中根雪江来る

十八日、中根雪江会津侯の許に遣わさる。侯近日病気のよしに面引籠りおられし故、其の病状を尋問せしめられしなり。このとき会津侯中根に面会ありて、近日感冒のため引籠り居けれど追々軽快の運故、明後日は必ず出勤すべし。(続再夢紀事2-357)

明後日二十一日は将軍が参内する日です。それに来られるのかどうか春嶽は心配になって中根をつかわしました。

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王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(2)

そういうわけなので

(ひと目でも)とおもったが(52)

見えてます。宗城日記によると「中川宮に会った時に、参内しておかみに拝謁する時は平伏するように武家伝奏から言われると思うけど、それでもしっかりおかみの顔を拝んだほうがいいよ!と言われた」とあるので、やっぱり何度考えても見えてたと思います。

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慶応三年二月五日 > 稲葉美濃守の和歌に心が傾いて出てくる

美濃守は筆硯を持来らしめて、携ふる所の扇に一首の和歌を書し、封緘して肥後守に贈らる。
心あひて 結ひし中の友垣を あられぬ風のなと隔つらん
肥後守は心動きて頓て面会せられたり。(七年史15-15)

 

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この後十七日に板倉に手紙を送り、これ以降孝明天皇の葬礼以外は邸に引籠ってでてこなくなりました。
ちなみにこの葬礼は寒い上に雨が降っていたため、容保は風邪を引いて寝込んでいます。

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慶応三年一月十五日 > 第二次長州征伐中止に反対する

松平肥後守、松平越中守に命じ、解兵の公布を朝廷に奉請せしむ。肥後守は再征の主張者なれば、解兵の不可を争ひたれども、用いられざるを以て怏々として楽しまず(慶喜公伝3-321)

 

慶喜は、国喪のために長州征伐をとりやめるために、容保の所司代弟定敬を呼んで、長州征伐中止を朝廷に上奏するように命じました。

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王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(1)

幕末が好きになったきっかけは、やっぱり「燃えよ剣」なので、司馬遼太郎さんは好きです。歴史は幕末と戦国が好きなのですが、幕末と戦国時代の司馬遼太郎の本は全部読みました。

 全部ホントのことみたいに思ってて、後から「えー!」ってびっくりしたりしたのですが、史料を読もうと思ったのは、王城の護衛者で一番大好きな「シャケ」の話が作り話だと知ったのが大きいです。

 司馬遼太郎さんは古老の目撃談とかカットインしてくるからさ、なんかホントかなって思ってしまう。

 

そこで、王城の護衛者を史料と一緒に読んでみようと思います。カッコ内のページ数は新装版のほうです。

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京都守護職 松平容保について

【人物評】

・背は中くらいで、痩せている。肌は浅黒く鉤鼻。ある事柄をほのめかしてかまをかけてみたが、ほのめかしの類は通じない人のようだ。(アーネスト・サトウ/イギリス通訳)

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慶応二年三月五日 > 帝から体調を尋ねられる

三月五日、会小野権之丞参る。今日肥後守参候而も不苦哉尋問に付不苦旨返答に及び候事。

松平肥後守入来。小笠原壱岐守よりの書面持参。所存尋に付、関白慮如何尋候ところ、三藩参内国事掛一同列座に而申入る可宜旨一橋へ御返答旨。於予も同様之事と答畢。心祝も有之に付、広間之者、次邉迄様酒を遣うたい少々有之酉半頃帰、畢内々鰻子五つ到来候事。朝彦親王日記下巻-3)

 第二次長州征伐について、帝への嘆訴(筋の通らない嘆願を御聞き入れにならないで頂きたい)についての計画です。このプランは慶応二年四月六日、小御所にて実行されます。孝明天皇紀212-17)

 

話題が二つあります。

 

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