京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(5)

その夜、帝の寵姫である三位保実のむすめが、ひそかに御所をぬけ出た。(105) 八月十八日の政変のくだりです。若い娘が?創作だね!と思ってたのですが 十六日の夜、帝は宮媛に宸翰をもたせて中川宮のところへ使いとして出した(七年史) ということなので…

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(4)

驚いて家老の横山主税、神保修理、田中土佐らが出てきた。(88) 二度目だけど、家老は神保内蔵助利孝です。修理は息子です。 古来、天子から武家に御直筆の宸翰がさがったというような例はない。(88) 宸翰というか、御製はかつて島津斉彬にくだってます。…

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(3)

この場の容保にとっては必要ではない。(67) 足利木像梟首事件です。大庭恭平がもどってきて「それがしがやりました」って言うシーンです。容保クール。七年史によると「そなたの罪は今、糺すべきではない」と言ってお金をあげて、つまり「逃げよ」というこ…

慶喜が阿片を処方された時期について

司馬遼太郎さんの著作「胡蝶の夢」で「元治元年に慶喜が神経症を発症したので、松本良順がアヘンを飲ませたら寝た」というエピソードがあるのですが、かなり大胆で面白いお話なので実際あったはずなのに慶喜側の資料(慶喜公伝、昔夢会筆記)には何も書いて…

慶応元年閏五月二十二日 – 将軍参内に合わせて参内する

二十二日、将軍家は入京し、参内された。わが公は先だって参内し、これを迎えた。聖上は小御所に出御あり、将軍家は進んで竜顔を拝し、去年以来、しばしば勅召があったのに、入観の遅緩した罪を謝し奉った。聖上は親しく恩諭の詔があり、且つ「一橋中納言、…

四賢侯、伊達の殿さま – 伊達宗城在京日記

伊達宗城の日記はものすごい面白いです。

元治元年二月十一日 – 容保、京都守護職を罷め、陸軍総裁となる

二月十一日、幕府はわが追うの京都守護職を罷めさせ、陸軍総裁職とした。越えて十三日、さらに軍事総裁職と改め、左の内命があった。この度、毛利大膳大夫父子へ御糾問の筋これあり。万一承服せざる節は、御征伐あそばさるべき思し召しに付、その節は副将と…

元治元年一月十八日 – 風邪で寝込んでいたら中根雪江来る

十八日、中根雪江を会津侯の許に遣わさる。侯近日病気のよしに面引籠りおられし故、其の病状を尋問せしめられしなり。このとき会津侯中根に面会ありて、近日感冒のため引籠り居けれど追々軽快の運故、明後日は必ず出勤すべし。(続再夢紀事2-357) 明後日二…

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(2)

そういうわけなので (ひと目でも)とおもったが(52) 見えてます。宗城日記によると「中川宮に会った時に、参内しておかみに拝謁する時は平伏するように武家伝奏から言われると思うけど、それでもしっかりおかみの顔を拝んだほうがいいよ!と言われた」とあ…

慶応三年二月五日 > 稲葉美濃守の和歌に心が傾いて出てくる

美濃守は筆硯を持来らしめて、携ふる所の扇に一首の和歌を書し、封緘して肥後守に贈らる。心あひて 結ひし中の友垣を あられぬ風のなと隔つらん肥後守は心動きて頓て面会せられたり。(七年史15-15) leica.hatenablog.jp この後十七日に板倉に手紙を送り、…

慶応三年一月十五日 > 第二次長州征伐中止に反対する

松平肥後守、松平越中守に命じ、解兵の公布を朝廷に奉請せしむ。肥後守は再征の主張者なれば、解兵の不可を争ひたれども、用いられざるを以て怏々として楽しまず(慶喜公伝3-321) 慶喜は、国喪のために長州征伐をとりやめるために、容保の所司代弟定敬を呼…

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(1)

幕末が好きになったきっかけは、やっぱり「燃えよ剣」なので、司馬遼太郎さんは好きです。歴史は幕末と戦国が好きなのですが、幕末と戦国時代の司馬遼太郎の本は全部読みました。 全部ホントのことみたいに思ってて、後から「えー!」ってびっくりしたりした…

京都守護職 松平容保について

【人物評】 ・背は中くらいで、痩せている。肌は浅黒く鉤鼻。ある事柄をほのめかしてかまをかけてみたが、ほのめかしの類は通じない人のようだ。(アーネスト・サトウ/イギリス通訳)

慶応二年三月五日 > 帝から体調を尋ねられる

三月五日、会小野権之丞参る。今日肥後守参候而も不苦哉尋問に付不苦旨返答に及び候事。 松平肥後守入来。小笠原壱岐守よりの書面持参。所存尋に付、関白慮如何尋候ところ、三藩参内国事掛一同列座に而申入る可宜旨一橋へ御返答旨。於予も同様之事と答畢。心…

慶応三年四月二十八日 – 慶喜からお見舞い

二十八日、大将軍は侍医香雲院に命じて肥後守が疾を訪はしめられければ、香雲院は帰りて其病状を言上しけり。(七年史15-44) 将軍慶喜は、御典医の香雲院に命じて、容保の病状を拝診させました。香雲院は診察だけして、帰ってから慶喜に病状を伝えます。将…

元治元年四月十五日 > 家茂よりお見舞いの使者

御小姓頭取木村紀伊守殿、御使を以従公方様、左之御直書丼御脇息壱、ギヤマン壱、御煮染五品入 御拝領被遊御用人及応対御礼如例取計候由、右御書内蔵助被召出候節、御下遊江戸会津へ申遣之御使者 御口上之趣 密事往返控ニ有之 不調之時令昨今之容躰、如何哉…

文久三年四月十一日 > 石清水行幸、発駕

十一日、攘夷叡願の事を以て石清水社に幸す。(孝明天皇紀157-6) 四月十一日五つ過、御表くし御児にて言上有。御清き御湯めされ御下はかまにて朝餉へ出御成。行幸の御もよふし御ふく高くらのかみへ新内しのかみわたさる。常御所下段にてわたさるる。御する…

文久三年八月十四日 > 容保、藩士を桑名から呼び戻す

十四日、交番の人数の環るを止む。四隊交番を以て守衛とし、家老神保内蔵助番頭、長坂平大夫、加須屋左近、坂本学兵衛、その組士を率いへ次き遂て着京し、井沢茂右衛門、内藤近之助等之に代て帰る。来る者は八日より着し往く者は十一日より帰る。時に世上の…

元治元年八月四日 > 池田屋の報奨金を下賜される

六月六日浮浪の徒、洛内へ聚屯不容易企有之候節、早速人数差出悪徒共召捕切捨、鎮静に及候段、速御聴候、右は兼々御守衛筋厚被相心得家来へ申付行届候故之儀と、一段之事に御沙汰に候。(七年史9-36) すみやかに、というか随分前のことについて報奨金がでま…

慶応元年十月七日 > キレた中川宮を宥める

松平肥後守参る。令対面候處、過日之一件断申す仍而コレマテ偽り実に不相済旨申す。且大樹胡服著様城外乗廻し如何マッタク彼告朔ヲ請候モ同様急度相改大樹之首ヲハネ天下ニシヤスヘク実ニニガニガ敷次第実ニ恐入候次第急度昨夜申入候通り急々取計候様申置。…

御所の表と裏

【御常御殿】江戸時代のおかみの普段の生活の中心。書院造の殿舎。外観は蔀戸が残されていて、寝殿造の面影がある。

関白について

・江戸時代の関白の仕事は、幕府と朝廷のパイプ役。・でも幕府がバックについてるので、幕府側の意見になりやすい。・それに幕府がバックについてるので、帝もおいそれと反抗しづらい。・関白には内覧という特権があって、帝に提出する書類を帝より先に見る…

元治元年九月六日 > ご洗米を下賜される

わが公は、さきに病を勉めて宿衛して以来、日夜心身を労することが多かったが、特に七月十九日以降は、あるいは徹宵すること数夜に及び、あるいは庭上に露営するなど、すこぶる労苦をきわめた。このゆえに、事変が鎮定するに及んで、病はとみに重きを加えた…

元治元年六月二十七日 > 容保、駕籠のまま武家玄関から参内する

二十七日、わが斥候が、長州藩士が襲来の気配あることを九条河原の営に報告した。それで、黒谷の本営に急を告げた。わが公は病をおして、本隊と内藤、生駒、一瀬等の隊を率い、家老一瀬を従えて清所門から参内した。禁裏附の糟谷筑後守が勅旨を伝え、特に武…

元治元年七月十日 > 容保、悪口を張りだされる

昨日十日朝、堂上今城殿裏門に左之張紙有之由。(風聞集-69) 六月二十七日、会津斥候が長州藩士襲来の気配あることを受けて、容保が病中に駕籠に乗ったまま御所に参内したことが、悪い噂になっています。

文久三年十二月十三日 > 容保、大さわぎして身支度する

十二月十三日、夕八つ時出門施薬院にて会津侯の許に到らせられ、それより参内ありて、夜九つ半時、帰館せらる。この日宮中において長藩井原主計より差しだしたる書面を下附せられ、意見を尋ね下されしか、参内諸侯方には該書面御収受の上は井原には帰国すべ…

文久三年十二月十六日 > 浄華院に引っ越しする

十六日、容保館を施薬院より寺門浄華院に徒す。故事に将軍参内毎に施薬院に過り更衣束帯す。時に将軍上洛近きにあり、施薬院を還さざるを得ずして時情未だ穏やかならず、黒谷の皇居を距る遠く、緩急事にて及ばざるを以て、伝奏衆より旨あり。浄華院に徒る。…

文久三年九月一日 > 攘夷勅使のお供として江戸に行くようとの勅命

九月朔日勅命ありて、有栖川熾仁親王を攘夷別勅使とし、大原三位重徳を副使とし、松平肥後守容保に随行を命ぜられけり。是より先八月十九日、攘夷迅速成功すべしとの御沙汰ありしかども、関東より何等の奏聞も無りしかば、朝廷は松平備前守茂政、松平相模守…

元治元年一月四日 > 参内して新年の賀を上る

四日、肥後守容保は参内して新年の賀を上ること、前年に同じ。(七年史7-1) 一月四日、わが公は参内して新正を賀し奉り、物を献上した。竜顔を拝するなど、去年の例の通りである。(京都守護職始末2-3) 四日・依御沙汰午刻参内。今日は御番且年頭御祝儀に…

文久三年一月二日 > 初参内

文久三年癸亥の歳正月二日、京都守護職松平肥後守容保は、初めて参内し、伝奏野宮宰相中将定功に因りて、天機を候し奉りければ、宰相中将は、入って此由を奏聞せられる。主上は、小御所に出御し給いて、肥後守を召して、謁を賜う。肥後守は恭しく龍顔を拝し…