京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年一月九日 > 春嶽邸で会議

九日、松平肥後守入来年史申置。後日挨拶使遣。議奏加勢備忘1-120)

 

(九日、夕八ツ時より一橋殿会津殿宇和島殿島津殿当邸に集会せらる。この日は茂昭公にも御同席なりき。さて御相談ありしたい略は、会津侯を征長副師に、春嶽公を守護職に、島津殿を幕議の御相談にくらえらるること、征長軍には外藩をくわえざることにそれぞれ決定ありては如何と一橋殿発議せられ、衆議の上、四項とも発議の如く決せられしかるべしとの事なりしか。(続再夢紀事2-340)

 

九日、春嶽邸へ参。橋会芋参集す。
長門処置密話決着 御名代・紀州、副将・会津、加勢・薩・加賀・肥後・因・備前・小倉・中津・久留米・梁川・加九名。
○春嶽守護職、会御免
○橋公初度参内済候はば、後見御免願差出候よし右に付、御免済職名之事
○薩三郎容堂此方御政事加談可被仰付内話
△結城筑後守初而参所存承る書付も為見候。伊達宗城在京日記-295)

 

宗城はまた「芋」って言ってますね。久光のこと。芋って。

まずこの日、中根雪江・酒井十之丞(越前福井)らが慶喜の宿舎に向かい、慶喜の腹心、平岡円四郎に面会します。平岡は慶喜からの内意を伝えました。

 

「このたびの上洛で、公武一和のめどがある程度たったら、長州の処分を行いたい。これは今後の徳川家の衰運をばん回する絶好の、重大な機会。会津が言うには、外様の力は借りずに将軍による御親征あるべきだという。慶喜は御親征は難しいのではないかと思うので、討手には紀州侯(徳川茂承、二十一歳)がいいが、まだお若いということなので、副将をおいてそれには兵力も強く統率もとれている会津を命じ、その上で長州近隣の諸藩に応援を頼めばいいと考えている。また長州親子を呼びだすなり、使者を遣わしなるして平和の手段もあるので、衆議にて決めていきたい。もし長州征伐をするとなると、会津侯の京都守護職は解免ということになるので、そうなったら春嶽侯にお願いしたく、諸事慶喜侯とともに相談しあって、また薩摩も報国の志ありとして、ともにやっていきたい。しかし薩摩に守護職はありえない。あったら必ず内々に伝えている。また慶喜は長く滞京して公武一和と京都守衛の任にあたりたい所存だが、方々から不平の色もあるかもしれず、強いては主張するつもりはない」
ということでした。(続再夢紀事2-337)

 

この日の容保は、まず御所に参内して年始の挨拶をします。
四日にも在京諸侯二十四人と挨拶してるのですが、丁寧ですね。
午後三時頃、春嶽邸(二条城の東、東堀川通りから少し引っ込んだところにある越前松平邸。現在は京都国際ホテルになってて、京都守護職邸の正門が移築されてるとこ)で、慶喜、容保、宗城、久光、あと春嶽の息子(越後糸魚川藩からの養子)が集まって会議をしました。

 

まず慶喜から議題

1 長州征伐の副将は容保。(慶喜の主張。容保の将軍御親征は却下)
2 よって容保は守護職をやめ、代わりに春嶽。(慶喜の主張)
3 久光を幕閣会議に加える方向。(慶喜の主張))
4 長州征伐は譜代親藩御家門でかためて外様は加えない。(容保の主張)
そこで久光が「幕閣の会議に加わるとなると、京都の滞在が長くなる。それってちょっと」と言いだし、また「長州征伐の軍に外様はいれないとのことだけど、薩摩はぜひとも入れてほしい」と、かなり奥ゆかしいことを言いだします。
慶喜はそれを受けて「外様はいれないとは言ったけど、やはり因州(池田家。慶喜の兄が養子)は入れたいなあ」と言います。

 

さらに別の議題がみんなから出ました。

 

5 慶喜は今回は長く京都にいて、禁裏守衛総督として頑張ってもらいたい。
(みんなから、ということですが上記を踏まえると春嶽からだと思われる。慶喜が希望していたことなので)
これに対して慶喜は「自分が京都に長くいると、江戸のほうが心配。今の幕府の状態だと先は長いとは思えない。早急に改革が必要となる。しかし京都の守衛総督の仕事も公武一和を考えると重要だから、公武一和のめどがたったら幕政を輔弼しようかと思う」と言います。
先に春嶽の家臣に伝えたところによると、慶喜は長く滞京していきたいようですが、よほど「不平」に警戒しているようです。
久光は「このご時勢、幕府の親藩や御家門で京都を固めるのが重要だから、慶喜殿はとにかく京都にとどまるを専一に考えるべきだと思う」と言います。上記の発言とあわせて見ると、とても信頼できて誠実・親身な意見です。

 

結論

1 御名代・紀州、副将・会津、加勢・薩・加賀・肥後・因・備前・小倉・中津・久留米・梁川、あと九名。
2 春嶽が守護職で決定
3 久光と容堂を幕議に加える。
4 1の通り。
5 将軍の参内が済んだら後見職は辞職して、禁裏守衛総督となり長く京都にとどまる。