文久三年一月十三日 > 中川宮に初拝謁する
十三日、肥後守容保は初めて粟田宮尊融親王に謁せらるる。(七年史3-2)
中川宮は国事掛として勤めるべしとの朝命を受けて、粟田口にある青蓮院を出て、日光宮里坊に引っ越ししましたが、国事掛を辞めて青蓮院に隠遁したいと、何度も請願していました。疑われるのを恐れて、諸藩士らと会うことを避けていましたので、なかなか容保も会うことができなかったのですが、この日は正親町三条実愛に頼んで仲介してもらい(軮掌録)日光里坊を訪問したところ、宮は快く謁見してくれて、種々のことについて存分に話しあうことができました。
粟田口 三条口。京の七口のひとつ。三条大橋を東に下って、加賀前田藩邸の近く。青蓮院がある。
中川宮は伏見宮家に生まれました。孝明天皇の父、仁孝天皇の養子(典侍甘露寺妍子が養母となる)となって青蓮院門跡門主につきますが、安政の大獄で隠居永蟄居処分になり、相国寺の塔頭桂芳軒に住まうこととなります。この時の名前が獅子王院宮です。塔頭とは、お寺の偉い人が隠居するための住居なので、一般的なお寺の建物(本堂)などと造りが違います。それから赦免されて国事掛につき、日光里坊に引っ越します。
日光里坊 御所東の鴨川添いに建つ。容保が一時期住んでいた浄華院の裏、南東にあります。
ちなみに現時点ではまだ還俗していないので、中川宮ではなく青蓮院宮、粟田宮です。
隠遁したがっていた理由は、中川宮は過激浪士に斬られるのを大変恐れていました。そのため長州勢力が都から一掃される八月十八日の政変まで、かなりおとなしくしています。
ちなみにこの日、伊達宗城の宿舎に張り紙がしてありました。内容は「攘夷をすると思ったのに全く仕事をしないので、攘夷の血祭りにあげてやる」です。うーん、そう言われると容堂とお酒飲んでおしゃべりしてる感じなのでアレかなとは思います。血祭りにしなくてもいいと思うけど。