京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

文久三年一月二日 > 初参内

文久三年癸亥の歳正月二日、京都守護職松平肥後守容保は、初めて参内し、伝奏野宮宰相中将定功に因りて、天機を候し奉りければ、宰相中将は、入って此由を奏聞せられる。主上は、小御所に出御し給いて、肥後守を召して、謁を賜う。肥後守は恭しく龍顔を拝し奉れば、頓て天盃を下れけり。
議奏正親町三条大納言実愛は、勅命を伝えて曰く「江戸表に於て、朝廷御尊奉筋周旋行届候儀、叡感斜めならず。紅の御衣を下さる。陣羽織または直垂に作るべし」との御事なりけり。(七年史3-1)


文久三年正月二日、わが公ははじめて参内し、新年を賀し奉り、小御所で竜顔を拝し、天杯を賜わった。また去る年、伝奏衆から幕府に白した勅使待遇の礼をあらため、君臣の名分を明らかにすることに尽力した功を叡感あって、特に緋の御衣を下し賜わり、戦袍か直垂に作り直すがよいとの恩詔を下し賜った。
武士で御料の御衣を賜わったのは、古来稀有のことで、殊に徳川幕府になってからは、けだし空前の隆恩であった。この日、わが公は御太刀、馬代、蝋燭などを献上した。京都守護職始末1-43)


松平肥後守会津中将容保朝臣巳刻参内也。鶴間著伝奏衆出会其後議奏衆其後出御於小御所有対面賜天盃其後小御所於取合廊下有拝領物両役集列座ニテ被渡(非蔵人日記)
入御。此後唐戸下有賜両人列座、第一中山御沙汰之旨被申渡御袙一領(盛御広蓋)賜之、六位役送、難有旨申上持退非蔵人引之。(俊克卿記)

 

 

一月二日、容保は初参内しました。
服装は狩衣で施薬院に入り、お休み所で一息をつき、次に山科家の雑掌が挨拶に来たので、表座敷で挨拶を受けました。そして容保にお弁当が出て、お付きの人にはお料理が出ました。

 

薬院 中立売御門北にある。将軍とか大名が参内するときここで着替える。八月十八日の政変のあとからしばらく孝明天皇の命令でここに宿を取っていた。黒谷は遠いからです。

 

食べたら衣冠に着替えて、武家伝奏の雑掌が「そろそろいいです」と言いに来ました。
容保はそれから唐門に向いました。容保を一目見ようと町方の者たちも外に出て来ているところへ、雪がちらついたので、お付きの者が端折り傘(朱色の)を差しだしました。

 
その姿がとても詩的だったようで

雪極少々ちら附を幸之鹽ニ朱之御装束御傘手廻し能さしかさし花ニ香を添候如く、一人之御容體ニ而四方大勢拝見人之中会津藩庁記録)

 

 

と、家臣が国元への手紙で花にたとえて報告しています。なんだか随分自慢そうに「みんな見に来た」「公家も覗いてた」「歩調は早からず遅からず」とか書いてます。
御供の人たちの服装は布衣か素襖です。(御所は羽織り袴の人は入るのはNG)


容保は公家御門(唐門)で馬からおりて、御車寄からあがったのかと思いきや、御車寄を通り過ぎて平唐御門を通過した後、諸大夫の間の階下にて伝奏衆の雑掌がでていて、そこで刀番に太刀を渡し、沓を脱いであがりました。会津藩庁記録)

 

平唐門 諸大夫の間のすぐ西にある御所内部の内門。

 

まず鶴之間で待っている旨を武家伝奏野宮定功が聞いて、それから議奏加勢の葉室長順に言います。葉室がそれをおかみに届け出ます。「肥後守が上京について挨拶の参内に来ました」そこでおかみのご機嫌もうるわしいということで、対面しますという旨が葉室から伝えられて、この時に「天盃の後に拝領するものがあるので、ちょっと待つように」との言葉があり会津藩庁記録)そして小御所下段に罷り出て挨拶をして、天盃を賜ります。

 

議奏加勢 議奏が忙しい時に、臨時で役目を勤める。

 

御裾  蔵人頭右中弁 清閑寺豊房
申次  議奏加勢 葉室長順
御陪膳 寺社伝奏 正親町三条実徳
御手長 権右中弁 万里小路博房
役送  大江俊堅
(万手小路日記)

 

御裾というのが分からないのですが、内侍所で帝が儀式をする時もいるので、おかみの裾でも持ってるのか何なのか。申次は議奏の役職のそのままで、御陪膳は給仕、御手長は膳部を次の間まで運ぶ役で役送は膳部を陪膳に渡す役です。


順番としては、口向きで天盃の御膳を準備したら非蔵人が廊下を進んで、御手長が受け取り、次の間で役送に渡し、約送が膳部を置く。御陪膳が給仕をする。これらの役はいつもとか、誰かがやると決まってるわけではなく、四位五位の公家がみんなで持ちまわりでやります。ただし清華家はやらない。清華家は転法輪三条(実美のとこ。正親町三条とは違う)、西園寺、今出川、徳大寺、花山院、大炊御門、久我です。


両役 議奏武家伝奏のこと。

 

そのあと唐戸下にて中山という人が「勅使待遇の礼をあらため、君臣の名分を明らかにすることに尽力した功」「緋の御衣(衵)を下し賜わり、戦袍か直垂に作り直すがよい」という御沙汰を伝えて、広蓋に載せた紅の御衣を容保は拝領しました。容保を蔵人頭が見送り、容保は「ありがとう!」と言って御衣を持って退出、非蔵人も退出。

 

唐戸下 小御所の東廂にある唐戸。小御所下段の間にいた容保は、席を立って右に向かって膝歩きで東廂に出た後、廂を上段に向かって北に歩き、つきあたりの唐戸まで進んだ。唐戸は開き戸の一種です。東廂の唐戸は金の飾りとかついてて、蝉の飾りもついてて立派です。この唐戸を開いて外に出ると、蹴鞠の庭が広がってます。

 

広蓋 表彰式とかで賞状とかメダルとか乗っけて校長先生のところに持って来たりするのは賞状盆で、あれより丸っぽい。


小御所で拝謁した時に突然、ではなくて事前に決まってて、そしておかみが入御(席を立って常御所に戻る)した後に、場所を小御所の東廂に移動して拝領したようです。中山って人が御沙汰を告げてますが、当時議奏中山忠能と思われます。七年史では正親町三条実愛になってますが、中山忠能の日記を確認したところ時間違いで参内した高家京都所司代牧野備前について全く触れてないので、たぶん中山のほうではないかと思います。「巳刻参内 退出戌刻」(中山忠能日記)御衣を渡して「戦袍か直垂に作り直すがよい」という御沙汰を伝えたまさにその役についていたのに、どうしてその半年後に、会津馬ぞろえの際「おかみが容保へ陣羽織をあげたらしい」という噂を信じたのか不思議ですが、この人の日記を見てると蛤御門の変の前に天王山に陣取ってる長州勢の「一部の兵士が猿である」という噂を信じてるみたいなので、ちょっと面白い人みたいです。

 

よくドラマとかでは御簾が降りてて途中で御簾があがって「お、おかみが玉顔を!」みたいな展開がありますが大名が挨拶にきたときは御簾はあがってます。伊達宗城は拝謁前から中川宮から「せっかくだからじっくり見といたほうがいいよ!」とか言われてました。宗城の拝謁は面白すぎるので今度詳しく書きたいです。

 

ちなみに翌日の一月三日、参内した池田慶徳鳥取藩主)毛利定広(長州藩世子)山内豊範土佐藩主)も御衣(白の下襲)を拝領します。(維新史-287)(万手小路日記)