京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年一月四日 > 参内して新年の賀を上る

四日、肥後守容保は参内して新年の賀を上ること、前年に同じ。(七年史7-1)


一月四日、わが公は参内して新正を賀し奉り、物を献上した。竜顔を拝するなど、去年の例の通りである。京都守護職始末2-3)

 

四日
・依御沙汰午刻参内。今日は御番且年頭御祝儀に付、詰合不残参内に付、於鶴の間謁伝奏。
 年頭御祝詞申上候一同。
 小御所に而一橋始一同拝。
・夜に入橋春会予四公に拝謁勧修寺宮御還俗親王宣下之事申上候事。
・関白殿始両役へ四人六半頃より面謁殿下よりケ條書御渡相成評議可相加旨
伊達宗城日記-292)

 

四日、朝四つ時参内せらる。本日は在京の諸侯方一同参内仰出され(中略)参与の方々は居残られ、去る二日一橋旅館へ集会の時決せられたる勧修寺宮親王宣下の事を三公方へ申立てられたりとぞ。夜五つ時過ぎ退朝せられき。(再夢紀事2-328)

 

一橋中納言松平春嶽、松平肥後守、伊達伊予守(中略)参内也。伝奏出会之後、御祝酒菱葩雉子焼臺肴羽盛肴等被下後出御小御所有。御対面且一橋中納言下段其外於廂総礼(中略)退出。一橋中納言松平春嶽、松平肥後守、伊達伊予守等御小御所関白殿有御用談。(非蔵人日記)

 

正月四日、今日諸大名高家とも一橋中納言はしめ二十四人年始御礼参内にて御対面成。外様御対面の御引つつきなり。守護職松平肥後守所司代稲葉長門守参内にて御対面成済 てするかとの出合にて口祝あり。(長橋局日記)

 

諸大名御礼参内御席に対面成。御表にて御焼かちん御きし葉もり出す由。
会津所司代年始の御礼申入す出会駿河との口祝有。押小路甫子日記2-485)

 

 

春嶽の記録に「朝9時、参内する」とありますが、春嶽は何か別件で御所に用事があったようです。「甲半刻過御常御所」まず午後4時に公卿の挨拶があり(日次案)次が在京諸侯の順番なので、宗城の日記のようにお正月の挨拶が実際あったのは午後でした。
二十四人の在京諸侯が参内して、慶喜は虎の間で、それ以外の人たちは鶴の間で控えていた後、小御所へ。慶喜だけ下段に入り、あとは廂(外廊下)にいたようです。人数が多いからでしょう。そのあとお酒、焼いたお餅とか、雉子焼などが出て、参与以外は退出しました。

 

かちん 女房言葉でお餅のこと。

 

御きし葉は雉子焼で、葉もり=羽盛。焼いたシギ(鳥)の肉を生きてるみたいに翼などをそえて出す料理。なんか怖い。

 

容保はその後、所司代とともに駿河という女官に挨拶をして、口祝を頂いたようです。ちなみに駿河嘉永の頃、孝明帝の御差だった人です。御差とは天皇が夜中にトイレに行く時に蝋燭のあかりをつけて先導する役で、帝と一対一になるので、帝ととても親しくなることが多かったです。そこで恋になったら困るので、老女が担当します。駿河もこの頃すでに六十過ぎです。

 

口祝 豆腐二切れ、かまぼこ二切れを入れた澄まし汁。

 

それから慶喜、春嶽、容保、宗城は小御所にて二条斉敬関白と話しあいをしました。議題は勧修寺宮(山階宮晃親王。後に国事御用掛となる)の還俗についてでした。