京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

文久三年九月一日 > 攘夷勅使のお供として江戸に行くようとの勅命

九月朔日勅命ありて、有栖川熾仁親王を攘夷別勅使とし、大原三位重徳を副使とし、松平肥後守容保に随行を命ぜられけり。是より先八月十九日、攘夷迅速成功すべしとの御沙汰ありしかども、関東より何等の奏聞も無りしかば、朝廷は松平備前守茂政、松平相模守慶徳に、関東に趣き督促せよとの命令ありしかばども、両侯は固く其使命を辞せられければ、更に監察使を下さるべしとの議あり。肥後守容保は憂苦措く事あたはず、親書を閣老に贈らんが為めに、家臣安部政治を関東に遣はして一橋中納言慶喜の上京を促されしが、未だ其事成らずして、遂に此命あり。(七年史-第六-1)

 

八月十八日の政変の翌日、攘夷を!という勅命をしたのに幕府からは何のリアクションもないので、朝廷は池田茂政備前岡山藩主、慶喜の弟。半年前に池田に養子にはいったばっかり)と池田慶徳因幡鳥取藩主、慶喜の異母兄)に江戸に行って督促せよと命じたところ、二人は「絶対に嫌です!!!」と言うので、じゃあ監察を遣ろうとかいう話が出ました。容保はどうしよう、と憂いた挙げ句に親書を老中に送り、家臣の安部政治を江戸に走らせて慶喜に上京を促しましたが実現しなかったため、このような状況になりました。

 

 

有栖川熾仁親王を勅使、大原三位重徳を副使、随行として容保が江戸に向かい幕府に攘夷を督促することになりました。結局この攘夷の特使は実現せず、有栖川熾仁親王が初めて江戸にはいったのは慶応四年、倒幕軍の総督としてでした。大原三位は文久二年に勅使として江戸に来てます。そのときは実美と一緒でしたね。
熾仁親王は後でお金を借りにきましたが、勅使って自腹なんですね。

 

ちなみに慶喜は容保が呼んでも来ないわけですが、慶喜の当時の考えです。八月二十四日、池田茂政宛の手紙(岡山池田家文書1-611)です。

此度は単身二ても掃攘之心底二御座候

もう自分的には一人でも攘夷してやるぞ!ぐらいの勢い。

耕雲齋其外同志を頼二身命を挺大憤発可仕と奉存候

武田耕雲齋とか仲間を頼りに命がけでやってやる!ぐらいの勢い。

 

こういうことを言うからおかしなイメージになるのでは……攘夷なんて心にもないんだから紋切型の表現にしておけばいいのに。

 

慶喜は江戸に帰る時に耕雲齋を連れて帰ったのですが、後年その理由を聞かれて 

「耕雲齋には別に用はないんだが」「別に耕雲齋には用はないはずだ」「耕雲齋は別に……」(昔夢会筆記-159)

 とか言ったくせに。おまけに「武田をお連れになったのは、ひとつの装飾品ということですな」と渋沢栄一にズバリ言われてるし。

 

池田茂政宛の手紙のつづきです。 

小子義は是非鎖湊相遂候上に而上京と決著致居候

自分は横浜鎖湊が成立してから上京するということになりました。

 

ということで横浜が閉じないと慶喜は京都には来ません。横浜が閉じないと行かない、と言ってるのですが、慶喜はこの手紙で「幕府で先日会議があって、横浜を閉じることのいい悪いとか利害について将軍が上京しておかみを説得する、それに先立って老中の板倉周防守が上京するという方向になった」とも言ってます。


横浜鎖港が成ったら京都へ行く、でも幕府としては将軍がおかみに鎖港はよくないと説得する方向性に決定している、ということで慶喜はものすごい来ないんだな、と思いました。