京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

文久三年十二月十六日 > 浄華院に引っ越しする

十六日、容保館を施薬院より寺門浄華院に徒す。故事に将軍参内毎に施薬院に過り更衣束帯す。時に将軍上洛近きにあり、施薬院を還さざるを得ずして時情未だ穏やかならず、黒谷の皇居を距る遠く、緩急事にて及ばざるを以て、伝奏衆より旨あり。浄華院に徒る。近傍寺院商家を借りて家臣の寓所とす。(盤錯録-435)

 

八月十八日の政変の翌日から容保は勅命によって施薬院に起居していましたが

此事変の起こりしより以来、肥後守は禁中を出ることは能はで、日夜事務を鞅掌せられしが、十九日勅命によりて施薬院に移りて(七年史-第五-115)

 これまた勅命によって浄華院に引っ越しました。

 

その理由は将軍家茂の上洛がもうすぐあるからです。将軍が参内するときのならわしで束帯に着替えをするのに施薬院を使います、かといって黒谷は御所から遠くて何かあったときにすぐに駆けつけられないので浄華院にしばらく住むように、ということです。家臣たちは近所のお寺や商家を借りて住むことになりました。

 

浄華院 今は清浄華院と呼ばれていて、場所はそのままです。(京都迎賓館の裏)容保が寝泊まりしていたのは浄華院の敷地にある塔頭の松林院でした。松林院は今はないです。

清浄華院公式ホームページ

 

塔頭 たっちゅう。寺院にある暮らしの場所。僧侶やお寺で働く人たちが住んでいる。