京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年七月十日 > 容保、悪口を張りだされる

昨日十日朝、堂上今城殿裏門に左之張紙有之由。(風聞集-69)

 

六月二十七日、会津斥候が長州藩士襲来の気配あることを受けて、容保が病中に駕籠に乗ったまま御所に参内したことが、悪い噂になっています。

 

これが原因です。

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容保が駕籠で乗りつけたのは朝命を受けてたからですが、当日にかなり長州系公卿が容保の非を鳴らしてあれこれ騒いでいます。彼らは長州入京というよりも、容保が武家玄関まで駕籠で乗りつけたことをかなり騒いで問題にし、なぜお咎めがないのか怒り狂っています。帝のせっかくの配慮だったのに、大変な騒動になってしまいました。


乗り物で門を通過できるのは、武家では将軍家茂と慶喜だけです。将軍も文久三年の初参内の時は駕籠から降ろされました。乗り物のまま通過していいことになったのは半年前の二度目の上洛からです。それを四位の中将である容保が許された上、御所内に宿舎を拝領するのは、実にもって異例中の異例、特例中の特例です。

 

「斬首」「御家断絶」などの過激な文句が載っています。今城家の家の裏に貼ってあったということです。

 

今城殿 御所の東、清和院御門の近くで、転法輪と聖護院宮、理性院里坊に挟まれてる。当主今城定章の三女、今城重子は四奸二嬪の一人。現在だと京都迎賓館の敷地内です。裏門側には途を挟んで壬生家と水本家が並んでいますが、何か見たかな。

 

「同意之逆心高貴之人両人」ということで、中川宮と関白二条斉敬も攻撃してます。
張り紙の人は容保が乗物のまま御所の門を通過したうえに土足参内したと文句をつけてます。

ちなみに土足参内というのは、普通は御所の敷地に入る前は沓に履き替えないといけないのですが草履とかで清所門を通過したのがダメということです。


因州鳥取池田慶徳慶喜兄)が七月十五日に備前岡山池田茂政慶喜弟)に送った書状にも、同じ内容が書いてあります。

肥後守が大病中とはいえ、駕籠で武家玄関まで乗りつけた上に土足で昇殿した。それについて慶喜が何も処置しないので、慶喜の悪評が甚だしい。肥後守も病中とはいえ非礼であるまじきこと、だそうです。因州藩の在京家臣が伝えてきたのだそうです。

 

慶喜の兄弟間の手紙ですが、因州藩は長州に同情的で、長州の嘆願書を朝廷に出してます。備前池田はもう八月十八日の政変前から「肥後守は因循」というスタンスで容保を見ています。因幡備前は「純然たる公武合体派にあらざれば」「幕府へ攘夷の厳達を請い、長藩を慰論せんと願える類」慶喜公伝2-275)です。

 

 去二十七日、不用意形勢之趣ヲ以テ、松平非肥後守乍病中押て参内可仕之處、歩行難し致候間、清所疑問より乗輿之儘御玄関迄昇込申度旨、附武家より当番出雲守へ申聞に付、一応相伺其上にて差図可仕之處、差含置候段、全心得違何共奉恐入之右に付、同人差控候儀、伺出るに付、此段奉伺候。(中山忠能日記1-664)

 取次の渡辺相模守が議奏柳原光愛に訴え出た話。こちらでは、容保のほうから「歩けないので武家玄関まで駕籠で乗り付けたい」と言いだしたため、御附武家糟谷筑後守が取次の出雲守に伝え「一応(上の人に)伺ってその上にてなんとかなるよう考慮した」という心得違いをしたのだということになっています。渡辺相模守は「出雲守は同僚なのでなにとぞ憐れんで頂きたいと願いながらも、このたびのこと、武家伝奏はなんとか我らを抑えようとされていますが、口向き一同、守護職を憎み、不服であります」中山忠能日記)という勢いです。


取次 口向きの地下役人の長。御所は奥・表・口向きに分かれていた。口向きとは台所と御所の営繕に関わる職務をもっていて、これをこの地下役人たちを統括しているのは長橋局である。取次は御附武家の配下におかれ、御附武家は取次をおさえることによって口向きを支配していた。御附武家幕臣で数年で替わるが、取次は京都在住で代々この職務を負った。当番制で、容保が昇殿した時は出雲守が当番でした。


渡辺相模守取次 出雲守の同僚のようです。天誅組の乱を鎮めるために中川宮の遣いとして差し向けられています。

 

柳原光愛 娘愛子は大正天皇生母。議奏

 

この後の文章に「元来、会(津)御贔屓之御処置」中山忠能日記1-665)という表現があるのですが、二十九日の宸翰の「決して私情を以致候儀にては無之候」(七年史8-36)に反応したものでしょうか。