京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

関白について

・江戸時代の関白の仕事は、幕府と朝廷のパイプ役。
・でも幕府がバックについてるので、幕府側の意見になりやすい。
・それに幕府がバックについてるので、帝もおいそれと反抗しづらい。
・関白には内覧という特権があって、帝に提出する書類を帝より先に見ることができるため、御所内の政治的な動きは全部把握できる。
・毎日参内するので、他のあんまり参内しない公卿たちよりさらに御所のことを把握できる。
・自分主催で会議をひらいて、結果が出たら武家伝奏所司代→老中というルートで幕府に知らせる。
つまり帝お一人だけの意志で幕府になんか言うことはできなくても関白ならその気になればできる。

 

 

鷹司政通 1823 – 1856
正室は徳川治紀の娘の清子なので斉昭の義兄弟。
関白辞任後も内覧の特権を持ち続ける。孝明帝のお父さんの代からの関白だから孝明帝も逆らいづらい。
でも権力にしがみついてたのではなく、何度も隠居するって言ったのに、意見対立があっても孝明帝はずっと信頼してて引き留め続けていた。
早いうちから幕府側(開国推進)で迷信とか信じなくて合理的。
二条斉敬をかっていたが、跡取りでもないのでやむをえず近衛を推した。(九条がイヤだから)
孝明帝へは水戸斉昭が書いた「ペリーは大根を二つに折って泥がついたまま生でかじる」「ハリスはきもい」という攘夷的な手紙を見せていたので、そのせいで孝明帝が攘夷になったと誤解されたけど、オランダとかの様子をきちんと説明してる書類も見せたりしてるので、孝明帝が自分の考えでいろいろ外国のことを判断できるようにしてあげてたらしい。

 

九条尚忠 1856.9.06 – 1862.07.19
正室は唐橋在熙(公卿)の娘。
関白にするのをみんなが躊躇うほど女癖が悪い。
言動が意味不明のことがありみんなが心配する。
「押しが弱くて物事をきちんとさばけない」
「時々わけの分からないことを言う」というのが朝廷での評判。
もともと鷹司と対立気味になってるところに井伊が「将軍は、紀伊がいいね?」と言ってきてその気になり鷹司と決定的に対立する。
それでも孝明帝と鷹司が条約勅許でもめた時は黙って見ていた。(こわいから)
鷹司が辞めた後は関白として幕府と朝廷のパイプ役になった為開国に傾き和宮降嫁を推進し尊攘派から狙われて辞職。
二条治孝の子で九条に養子に行った。二条斉信とは異腹兄弟。二条斉敬は血筋的には甥。

 

近衛忠熙 1862.06.23 – 1863.01.23
正室は島津興子。篤姫の養父。薩摩と仲良し。
そのような理由で将軍後継問題では断然一橋推し。安政の大獄で処分される。
「悪い人ではないけど、女よりぐにゃぐにゃしている」というのが朝廷での評判。
「性格が温厚」というのが会津の人の感想。
ぐにゃぐにゃだけど九条が嫌いなので鷹司はこちらを関白にしたがった。
容保が上洛した時の関白で真っ先に会いに行った(当時引きこもり中。だけど容保や家臣に親切にしてくれた)
過激派(たぶん実美)がゴリ押しで長州藩主慶親を文久三年一月十七日参議にしたため、ぐにゃぐにゃなりにもぶちキレて関白辞職。
平安京の陽明門のとこに家があった名残で、近衛家は陽明家と呼ばれる。幕末の書類で時々陽明殿というのが出てくるけど、紫宸殿とか清涼殿みたいに禁裏の殿舎の一つではなくて近衛家の邸のこと。御所南の今出川門のすぐ隣にある。親子して伊達宗城と仲良しだったみたいで、日記にしょっちゅう名前が出てくる。
※参議についてはページ下部補足

 

鷹司輔熙 1863.01.23 – 1864.01.31
母が徳川清子(徳川治紀の娘)なので慶喜の従兄弟。政通の子。
8.18ではかやの外に置かれる。
禁門の変では久坂とかが家に入って来て家が焼けたりしたので、長州系みたいなイメージだけど怖かったから何も言えなかった様子。
それでも内通を疑われ立場が悪くなった。
孝明帝は家が焼けて気の毒なので御見舞金をあげた。

 

二条斉敬 1864.01.31 – 1867.01.30
二条斉信の子。母が徳川従子(徳川治紀の娘)なので慶喜の従兄弟。
跡を継いでない時期から鷹司政通に「いいね!」と言われていた。
「人望がある」「下の人たちも斉敬のこと誉めている」朝廷での評判。
会津藩の人は「おだやかで心が広い」と言っていた。
慶喜が思わずしどろもどろになるほど強い態度に出ることもある。ガツンと言われると老中も顔が真っ青になる。
鷹司と九条の対立をなんとかするアドバイスを孝明帝に進言した。
容保と仲良しで「両敬」(婚姻関係がある親戚同士みたいに親しいお付き合いをする約束)の約を結んだ。
中川宮とも仲良しでいつもだいたい意見は同じだけど、どっちかというと斉敬のほうが強気。

 

参議 参議以上または三位以上の者が公卿に列せられる。

徳川幕府政権下では徳川宗家(三卿含む)と御三家は三位以上になれるので公卿になれる。加賀前田も三位になれる家格なので普通に勤めてれば公卿になれる。

だから長州が参議になり公卿に列せられるのは破格中の破格。
公卿になると御所での控えの間も違い服装も違う。

 

一橋慶喜は三位中納言なので御所での控えの間は虎之間で、松平容保等の大名はそれより格が落ちる鶴之間。
・公式のお召しで御所参内の時の大名の服装は衣冠なんだけど三位以上と参議は袴(指貫)に模様や色が許される。四位以下は紫の無地のみ。


容保は元治元年に参議にすると言われたけど、藩祖の保科正之より偉くなってしまうのは憚られると思い替わりに藩祖に三位を贈位して下さいと何度も頼んでそうして貰った。孝明帝が崩御された後、朝廷から長年の忠勤を功して参議にするとの報せをもらって、この時は受けた。