京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

御所の表と裏

【御常御殿】
江戸時代のおかみの普段の生活の中心。
書院造の殿舎。外観は蔀戸が残されていて、寝殿造の面影がある。

 

1 常御所
(上段の間、中段の間、下段の間)
上段の帳台構のうちが剣璽の問

2 褻の御座所
(一の間、二の間、三の間、次の間)
一の間 ここで普段過ごす。約15畳。
ニノ間 平常の御膳はここで召される。(大文字ご覧の御間)
三ノ問は女房の侍すところ。
次の間は命婦以上の女官の控室

3 御小座敷
(上段、下段)
関白対面に使う。
歌道伝授なども行う。和歌奉行とか。
(和歌奉行は冷泉為理と飛鳥井雅典)

4 御寝間
御寝の間は十八畳

5 御清間
御神事のとき使う。潔斎後はこの間で寝る。

6 申ノロ
(申北、申南)
下級女官のいるところ。
板張の広い問
(西側の広縁に面して申ノロと女嬬詰所、男居がある)

7 御献の間
畳が一畳巾に敷かれてある
献上品が並べておかれる

8 御三間
(上段、中段、下段)
諸家奏慶、七夕手向歌の儀などが行われた。

 

※男子禁制
幕府が定めた禁中法度では基本的に男子禁制。(猪熊事件があったので)
御常御殿で働く男性はじいさんと少年。
「御三間と御献の間の先に御錠口がある。板敷きに畳3枚ぐらい並べてあって屏風でかこってあってそのなかにじいさんがいる。じいさんが鍵を締めて屏風の中で寝ている」
帝は表(小御所とか)へ出るのは自分の気ままというわけにはいかない。(慶喜公伝)
ちゃんとした理由がある関白は入れる。関白はおかみと相談したりする時とか、官位をあげる手続きの時にくる。御小座敷で会う。官位の時は議奏も一緒に来る。
長橋局は奥ではなく口向きにあり役人の出入りがある。
将軍とか将軍のお遣いは長橋局が接待するので長橋局の部屋まで入る。

 

【口向き】
常御殿の西側のエリア。清所御門の近く。奥と表の中間エリア。
御台所、長橋局、武家玄関、武家休息所、参内殿などがある。
参内殿は大臣や皇族が参内する時に使う部屋。
幕府から派遣された御附武家(御所の内部事務に関わる武士)は口向きに詰めてる。女官はこのあたりは普通に出入りしてる。大御乳人(命婦のナンバー2)とか右京大夫(御服所トップ)も客の接待に来る。御附武家がいる伺候之間は容保も出入りしてる。

 

【御所で働く女のひとたち】

典侍
天皇の側に仕える。直接会話ができる。側室候補。
帝の髪を結ったり御食事の介添えをしたりする。男性には顔を見せない。
彼女たちの宿下がりについては大奥よりもずっと気軽で、例えば明治天皇生母の中山慶子(権典侍)は元治元年六月二日、下痢になったけど御所はトイレが遠くて大変だからという理由でその日のうちに実家に帰ってます。
定員七名。
トップは大典侍
以下は新大典侍、権中納言典侍、宰相典侍、按察使典侍等。

・内侍
天皇の側に仕える。直接会話ができる。
御所の事務をつかさどる。口向きに詰めていて表と奥のパイプ役。
定員四名。
トップは長橋局(勾当内侍/こうとうのないし)。将軍(もしくは将軍のお使い)が来たら自分の執務室に呼んで接待するほどの格式がある。
以下は小式部内侍、中将内侍、右衛門内侍

命婦
天皇の側に仕えるが、直接返事はできない。もし帝から話しかけられたら典侍か内侍に向かって返事をする。
ただし御差は天皇が夜トイレに行く時のおつきなので、トイレ時は楽しく会話する。
定員七名。
地下の三位や二位の娘がなる。(押小路、壬生、幸徳井等)
トップは伊予。次が大御乳。以下は伊賀とか駿河とかの地名。
嘉永時の御差の駿河桂宮(敏宮。孝明天皇の姉)の家の諸大夫・生島成房の娘。

※以下はお下さんと呼ばれる
・御末 定員七人。トップは尾張。四位。五位、六位の家の娘。
女嬬 定員七人。トップは阿茶。四位。五位、六位の家の娘。
・御服所 定員七人。トップ右京大夫。この人は特に表使いをする。無位無官の娘でもオッケー。

 

【悪女官】
藤宰相という掌侍は孝明帝の意志に反して禁門の変の時に長州方として活動したため、元治元年十月十一日、謹慎を命じられた。しかし藤宰相はいなくなっても、藤宰相が遺した「悪風」は残った。慶応元年七月九日、孝明帝は中川宮に手紙を出して、御所の奥の有様を相談する。
「申ロ方(前述の6申ノロに詰めている下級女官たち)とは、予とは全く合わない。予に従う者は少ない」「藤宰相に仕込まれた者どもなので、女童などの子供といえど決して油断ができない」「奥は天皇派と反天皇派同士の誹謗中傷で溢れている」「特に東宮の周辺の女官は藤宰相の手下が多い。だから東宮とはわが子なのに合わない」「下級女官や三仲間(御末・女嬬・御服所)は節度がないので、東宮とは関わらせたくない」「この現状を捨て置いたらいよいよ何か起きる」「このままでは容易ならざることが起きるかもしれない」(朝彦親王日記)
藤宰相はかつて長橋局として奥を取り締まってた。名前は高野房子。掌侍になる前、孝明帝が東宮時代は東宮中臈だった。王政復古が行われた慶応三年十二月に復帰したので、明らかに倒幕派だった。後に従三位。孝明帝は彼女のことを「姦」という字を使って表現。孝明帝にとって、奥はあまり心休まる場所ではなかったようです。