京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶応元年十月七日 > キレた中川宮を宥める

松平肥後守参る。令対面候處、過日之一件断申す仍而コレマテ偽り実に不相済旨申す。且大樹胡服著様城外乗廻し如何マッタク彼告朔ヲ請候モ同様急度相改大樹之首ヲハネ天下ニシヤスヘク実ニニガニガ敷次第実ニ恐入候次第急度昨夜申入候通り急々取計候様申置。朝彦親王日記1-437)

 

慶応元年十月五日に条約勅許がおりました。

 


兵庫港に夷人がやってきて、条約通りの開港を迫り、びっくりした幕閣は思わず「開港します」と老中たちは勝手に言ってしまいます。この報せを聞いた慶喜は大阪に馬を飛ばして夷人と直接話し合い、開港を待ってもらうことに成功しました。慶喜は京都に帰り「条約勅許が頂けないならこの場で責任をとって腹を切る。しかし其が死んだと聞けばわが家臣たちが何をしでかすかまでは責任はとれない」と公家たちを脅し、とうとう条約勅許をとることに成功します。慶喜公伝3-192)

 

ところが中川宮は、最近前関白近衛忠煕薩摩藩士らを勝手に宮中に招き入れていろいろと相談しているのに対して「朝廷の権威を貶める」として、腹をたてていました。さらに近衛忠煕が勝手に帝の御前から退出するという行動に出たために「おかみを何と心得ているのか!」と激怒します。そこ激怒は慶喜の強引な条約勅許でさらに煽られて、とうとう中川宮はぶち切れて「外国のものを贈りものにするのもダメ!とにかく異国とか無理!だめ!ペリー爆発しろ!」と暴言を吐いて、十月六日、辞職願いを出しました。

 

容保は翌日七日に公用人の手代木を宮のところに使わして説得します。さらに今日、自ら宮の邸に赴いて辞職撤回の説得にあたります。
容保が人を説得するときは「同じことを何回も言う」みたいで文久二年十月二十三日に引きこもってた春嶽に登城を促したときも「しきりに言っていた」らしいです。

 

しかし容保を前にして宮は「将軍が城の外で外国の服を着てうろうろしてるって何なの?!叡慮は攘夷だよ!攘夷!攘夷なのに将軍は外国の服着て堂々と歩きまわってるなんて!もう将軍の首をはねろよ!」と大暴言を吐きました。世が世なら島流しですね。朝彦親王日記1-437)(慶喜公伝3-201)ところで家茂って洋装したことがあるんですね。知らなかった。