京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

文久三年四月十一日 > 石清水行幸、発駕

十一日、攘夷叡願の事を以て石清水社に幸す。孝明天皇紀157-6)

 

四月十一日五つ過、御表くし御児にて言上有。御清き御湯めされ御下はかまにて朝餉へ出御成。行幸の御もよふし御ふく高くらのかみへ新内しのかみわたさる。常御所下段にてわたさるる。御するすると五つ過南殿へ出御成。劔新内しのかみ璽内侍御無人に付、権すけのかみなり。供奉伊予のかみ丹波のかみなり。母屋御す 大すけのかみ御す 関白はなり。御するすると御機嫌よく五つ過行幸成。
いなりの社御小休。城南宮にて御中食。淀姫社の御旅所にて御小休。八幡下院にて御束帯めされ て馬場殿代豊蔵坊へ著。御戌の刻過著御後御機嫌よくおするするとなり。
御留守中、二条右府は中務卿宮は御留守に御参り。
丑の刻、御拝御するするとの御事言上あり。(長橋局日記)

 攘夷祈願の石清水行幸が発駕しました。


容保は喪中(美濃高須の実父、松平義建文久二年八月二十日)だったので、加茂行幸と同様、参列は憚りました。

 


ところがこの石清水行幸孝明天皇の叡慮にもとづくものではなく、三条実美などの過激公卿が発案したことで、本来四月四日のところが十一日に延期されたものでした。京都守護職始末1-104)

 

十日朝、持病の眩暈がおきて長い距離の駕籠は無理だと思い、鷹司輔熙に「延期したい」と言うものの、関白は過激公卿を恐れて聞いてはくれませんでした。また三条実美が参内して、強硬に拝謁を願い「延期は無理、病気でも行って頂きます」と言い、また病気を疑い、いざとなれば医師の診療を偽造するか、常御所に踏み込んで

暴力を以ても鳳輦しまいらすべし慶喜公伝2-191)

という勢いなので、いやいやながら孝明天皇は出発することになります。

 尤も少しずつ御酒を召しあがった。(中略)行幸のことも、ようよう御酒の勢いで八幡までいらっしったようなわけであるから(昔夢会筆記-163)

 素面で行くには不快であった孝明天皇は、お酒を飲みながらの道中でした。

しかしこの供奉には、将軍は列していませんでした。

 

十日の亥の刻(午後十時)、将軍は高家某を伝奏野宮につかわし、風邪発熱を理由として供奉を辞する旨を伝えます。これは将軍後見職一橋慶喜が将軍を諌めて勧めたもので
行幸の間、御前に召されてどんな攘夷の勅令が出るかも分からない。この時老中や自分は将軍とは遠いところにおり、将軍お一人で応対せねばならない。これはまるで、将軍お一人を敵中の重囲にお連れするのと同じで、大変危険である」
ということで、供奉を辞させました。

いったいお出になる積りであったのだが、御病気ということにしてやめたのだ(昔夢会筆記-158)

町方の噂では、攘夷の節刀を受け取るのがイヤだったからだと言う者もいましたが、もとより攘夷の節刀を下賜するという段取りは聞いていなかったので、本来の理由はこれです。慶喜公伝2-190)

 

しかし容保側は「この未曽有の盛典に将軍家が供奉に列しなければ、威名地に落ち、とりかえしがつかない、区々の輩など恐るるに足らないと」と、早速徳川慶勝(前尾張藩主、大納言、容保の実兄)に相談します。高須兄弟は二条城に登城して説得し、一度は供奉に列することになりますが、その夜、側衆の糟谷筑後守の話では「将軍が発熱されて御苦悶されており」「それでも頭を持ちあげられる限りは供奉に列するとおっしゃっていた」「しかし侍医たちが止めた」ということです。そして後見職慶喜は「それなら替わって予が供奉しよう」と言っているという。

 

そこで容保はその旨を朝廷に奏上して、典薬頭を賜って診察して頂きたいと申し出ます。最初、孝明天皇は将軍の病気を疑いましたが、典薬頭の診察を聞いてお疑いも晴れました。京都守護職始末1-104)

 

糟谷筑後守義明 旗本。万延元年に小納戸役、文久元年に函館奉行。この時、御雇外国人と応接し「その親切さと優雅さは、昔会ったローマ法王のような物腰だった」と言われてます。また会津藩士広沢安任は文久二年、ロシアとの国境談判を仰せつかった糟谷筑後守の随員として蝦夷地に向かってます。文久二年十二月小納戸役頭、文久三年十二月禁裏附。禁門の変前の「容保土足昇殿事件」関係者。免じられて寄合、慶応三年に外国奉行並、新潟奉行。通称は槍之助。官名は志摩守、大和守、筑後守。父は彌右衛門。妹のふねは和宮付きの奥女中。

 

という顛末ということに会津側ではなってますが、実際は将軍は仮病でしたので、典薬頭は何かいいものを貰ったのかもしれないです。

 

結局、慶喜は神社の手前で本当に具合が悪くなり(お腹が痛い)近くの寺で衣装をとって突っ伏してました。石清水の参詣は帝だけが行います。なぜか会津側では「将軍後見職が眼病で参詣できなかった」と把握していますが京都守護職始末)お腹が痛かったのです。ご本人がそう証言しています。昔夢会筆記というのは明治後に旧家臣の渋沢栄一たちが慶喜にインタビューしたインタビュー集です。

本などにはあの時私が仮病をやったように書いてあるが、実はそうではない。真に下痢をした(昔夢会筆記-159)

こんなにかっこよくお腹壊したって言える人はいないと思います。