京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶応二年三月五日 > 帝から体調を尋ねられる

三月五日、会小野権之丞参る。今日肥後守参候而も不苦哉尋問に付不苦旨返答に及び候事。

松平肥後守入来。小笠原壱岐守よりの書面持参。所存尋に付、関白慮如何尋候ところ、三藩参内国事掛一同列座に而申入る可宜旨一橋へ御返答旨。於予も同様之事と答畢。心祝も有之に付、広間之者、次邉迄様酒を遣うたい少々有之酉半頃帰、畢内々鰻子五つ到来候事。朝彦親王日記下巻-3)

 第二次長州征伐について、帝への嘆訴(筋の通らない嘆願を御聞き入れにならないで頂きたい)についての計画です。このプランは慶応二年四月六日、小御所にて実行されます。孝明天皇紀212-17)

 

話題が二つあります。

 

一つ目は中川宮のところに会津公用人小野権之丞が来ました。今日肥後守が来たが「苦しくないか」という質問に「苦しくありません」と答えたということだ。

主語はないですが、容保に対して「而」(なんじ)という身分が下の者に対する二人称代名詞を使っていることから、容保に尋ねたのは帝ということが分かります。容保が参内して帝に体調を尋ねられた、という話題です。


二つ目。容保が老中小笠原壱岐守長行の書状を持参してやって来ました。容保にそなたはどう考えるかと聞いたところ「関白殿下はどのようにお考えでしょうか」と質問された。関白は、三藩が参内して国事掛一同がいるところで申し入れをするのがいいだろうと一橋へ御返事した、ということを伝えた。それについては私(中川宮)も同じように考えていると答えた。その話題が終わってから心ばかりのお祝いもあり、広間の者にも酒をつかわして謡なども少々やったので、容保は酉半(夕方18時)頃に帰っていった。
第二次長州征伐がなかなかうまくことが運ばない上に、いろいろな筋から嘆願の届けがきているようです。薩摩が手をまわしているのですね。それに対して帝の心が揺れて、筋が通らない嘆願を聞き入れて赦してしまうことはないようにというお願いをしたいけれど、どのようにやったらいいのかという話し合いです。この日の天気は晴。

三藩というのは一橋、会津、桑名のいわゆる一会桑のことを差します。孝明天皇紀212-17)