京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

京都守護職 松平容保について

【人物評】

・背は中くらいで、痩せている。肌は浅黒く鉤鼻。ある事柄をほのめかしてかまをかけてみたが、ほのめかしの類は通じない人のようだ。(アーネスト・サトウ/イギリス通訳)

・衣冠姿に朱色の傘をさしかざしてみたところ、花に香りを添えるかのようなお姿。(会津藩公用人)

・周旋はもっともふさわしくないお役目。苦手でいらっしゃる。(中根雪江等、各藩公用人)

・お酒を飲むと割とうるさいぐらいしゃべる.(高須藩士)
・すらりとしていて、目鼻立ちがきれい。(会津藩侍医)

 

【兄弟】

徳川慶勝 尾張藩十四代藩主
松平武成 石見浜田藩の第三代藩主
徳川茂徳 高須藩第十一代藩主 → 尾張藩第十五代藩主 → 一橋徳川家第十代当主
松平定敬 桑名藩第四代藩主
松平義勇 美濃高須藩第十三代藩主

 

【京都での宿舎】
文久二年十二月二十四日 黒谷本陣
文久三年八月十八日 施薬院
文久三年十二月十六日 浄華院
元治元年五月 黒谷本陣
元治元年六月二十七日 凝華洞
慶応元年三月九日 黒谷本陣
慶応元年九月一日 京都守護職

 

黒谷本陣

www.kurodani.jp

金戒光明寺 左京区黒谷町121
容保の宿舎は大方丈(御影堂の右)
御影堂も大方丈も火災より焼失し、現在の建物は昭和十九年に再建されたもの。
御所の西に京都守護職屋敷ができた後も、容保は黒谷をきにいってここを本陣としていた。
ていうか今でも「京都守護職本陣」の札がかかっている。

 

薬院
御所西の中立売御門の北にあった。
現在はない。御所にある宮内庁の事務所の北西すぐのあたり。
将軍が参内する時に衣装を衣冠や束帯に改めるための装束屋敷として使われていた。
家臣たちの人数が多くて収容しきれないので、周辺の商家数十件を借り上げた。

 

浄華院

清浄華院公式ホームページ


御所東の清和院御門を出て寺町通りを北に向かったところ。
今は清浄華院という。京都迎賓館の東、梨木神社の北東にある。
容保の宿舎は松林院という塔頭。今はない。

 

凝華洞
御所北の建礼門の北。
文久三年夏の時点では何もない広場だったと推測される。
馬揃えの時の会津藩の一時集合場所に使われた。
また長州藩がここに藩邸を建てたがっていた。
そして元治元年の夏には厩が新築されている。
禁門の変の時に鷹司邸が炎上した際、凝華洞が攻撃されて炎上したから会津は劣勢だと慌てる御所の人たちに対し容保が「煙が黒いので凝華洞ではない。凝華洞なら新築だから煙が白いはずだから」と発言した)
容保は慶応元年三月九日までここにとどまり、そのため来訪の人数の馬や従者が道路に溢れたため、建物を増築した。

 

京都守護職
御所西の下立売御門の西。北は下長者通り、南は下立売通りに面している広大な屋敷。(現在は京都府庁
さらに下立売通りを挟んで丸太町通りまでにいたる敷地にも屋敷を建てる。(京都府警察、上京消防署、第二赤十字病院
下立売通り面した正門を通ると敷石があり、その周りに割栗石が敷かれて大玄関(式台)に至る。

 

会津藩公用局
千本下立売り(千本通りと下立売通りの交差点)にあった会津藩の公用方の事務局。
京都所司代千本屋敷の北。今はやまに寿司とか東寿司とかあるあたり(十四軒町)。

 

松平容保とは

 

 

京都守護職とは