京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(1)

幕末が好きになったきっかけは、やっぱり「燃えよ剣」なので、司馬遼太郎さんは好きです。歴史は幕末と戦国が好きなのですが、幕末と戦国時代の司馬遼太郎の本は全部読みました。

 全部ホントのことみたいに思ってて、後から「えー!」ってびっくりしたりしたのですが、史料を読もうと思ったのは、王城の護衛者で一番大好きな「シャケ」の話が作り話だと知ったのが大きいです。

 司馬遼太郎さんは古老の目撃談とかカットインしてくるからさ、なんかホントかなって思ってしまう。

 

そこで、王城の護衛者を史料と一緒に読んでみようと思います。カッコ内のページ数は新装版のほうです。

 

家老は練達の士が揃っている。特に西郷頼母山川大蔵(15)

ちょうど松平容保家督を継いだ嘉永五(1852)年あたりの記述なので、大蔵は子供(弘化ニ年、1845年生まれだから数えで八歳)だから練達してない。大蔵が家老になったのは戊辰戦争の時です。頼母はあの頼母じゃなくてあの頼母のお父さんのほうの頼母ですがどっちも頼母だからどっちの頼母なのか分んなくなっちゃいますね。

春嶽にすれば、自分たち連枝が政治の泥をかぶるとなった以上、その数をふやしたいと思うのが人情でもあったのだろう(22)

なんか春嶽がとんでもない人ですが、京都守護職の話のきっかけは、決まりかけていた京都所司代の人選に容保が反対したのが大元で「会津殿になんかさせよう」というより先に、京都所司代はもう譜代の誰がやってもダメだし外様なんてもっとまずいよねっていう京都守護職という新しいポストのニーズがあって、それを容保にっていう経緯です。(再夢紀事、慶喜公伝)

「容保だな、当主は」と、慶喜はいった。慶喜は、言葉は交わしたことはないが(28)

京都守護職の話が出てるあたりだと、勅使の大原重徳が来た時に一緒にご評議の座に出てるので、知ってるのは顔だけってことはないと思います。(再夢紀事)

登城せよ、との上使に接したが、病状が思わしくなく、かわって江戸家老の横山主税を登らせた。(30)

京都守護職の最初の就任要請は春嶽からで、春嶽は登城したけどこの日お腹を壊していたため早退して、藩邸に横山を呼んで病床で話をしました。(再夢紀事)

「どうしても口説く」といって、その翌日、わずかな供廻りを従えて和田倉門の屋敷にやってきた。(31)

春嶽が和田倉門の容保のところに来たのは八月八日なので、就任要請の翌日ではないです。(再夢紀事)

容保は、台命を承けるために登城した。まず政治総裁職の御用部屋に行って春嶽に挨拶すると(37)

容保が守護職就任の台命を受けた閏八月一日は、春嶽は欠勤してます。理由は「幕政改革しようってのに老中とかが言うこときかないでいつまでも古いやり方に固執してるからやってられないから」です。京都守護職始末、七年史、再夢紀事)

なお出発は「十二月」と決められた。(38)

本当はもっと早かったのですが、三条実美が勅使として江戸に来るにあたって「会津殿、勅使の待遇を改善してよ。そのためには京都守護職として上京するのが遅くなっても構わないから、この内々のお願いを聞いてよ」と容保に頼んだので、勅使の待遇を改善するように幕閣に話して、ちゃんと改善されたか見届けてから上京することにしたので「なんで?早く行きなさいよ」と老中に言われて容保は「そんなこと言うなら京都に行きません!公武御一和のためには勅使待遇改善とか、開国か鎖国かの国是を決めたりとか、きちんとやらないとダメなんです!」と怒ったりとか、いろいろあって十二月になったので決められたのではないです。。京都守護職始末、七年史)

家老神保修理は、この報告書を読んでひどく安堵したようだった。(40)

安堵したのは修理じゃなくてお父さんの内蔵助利孝のほうだと思います。修理は家老ではないので。

「畏れあることやが」と、実愛はいった。(48)

帝が貧乏という話で、鯛がただれてるとか、お酒に水がまざってて市井の職人でも吐きだすとかですが、御所は豊かではないけど貧乏ではないです。幕末の御所の女官の談話によると、帝の食事で残ったのは係の人がもらえることになってて、おいしいものを食べられる役目だったそうです。「自分も貰ったことがあって、きれいなお膳だった」と語ってました。だってまず朝ご飯の前にあの虎屋とか道喜のお菓子を召しあがるしきたり(おあさ)になってるけど、帝は食べなかったそうです。「御難渋の頃」は、おかみが「おあさは、まだか‥‥」と、お夕飯がしょんぼりなので翌朝はお腹が空いてお待ちかねだったけど、徳川の時代になってそういうこともなくなってしきたりだけは残っておあさがあったということなので、鯛が腐ってて鼻が曲がるようなことはないと思います。

 

あと江戸時代の日本酒は基本的に水が入ってます。将軍のお酒には入ってないように思いますが。ちなみに将軍のお酒は赤いお酒で匂いが割ときつかったそうで、全員将軍はこのお酒を飲む決まりで、ただ慶喜だけは飲まなかったそうです。(旧事諮問録)

 

このくだりの後に続く、容保が鮮魚を毎月送ったのはホントです。(あと御所と公家の賄い料UPもホント)御所の女官、大御乳人の押小路甫子日記を見ると、毎月「生たい一折 月次ニ付 会津中将より献上」という記述があります。それが途切れたのは、王政復古で容保が京都を追われるように大阪に下った慶応三年の十二月でした。なんか切ないです。しかしこの魚を贈るのも帝が貧乏だったからではなく京都所司代は毎月御所に鮮魚を贈るしきたりに則って、守護職も鮮魚を贈ることにしたのが理由です。何度も言いますが御所は貧乏ではありません。

天子は御簾のなかに入られたようであった。(52)

拝謁した時は、御簾はあがってました。竜顔を拝したって書いてあるので。あと翌日参内した伊達宗城の時もあがっていて、拝謁する前に宗城は「しっかり竜顔を拝見したいぞ」と思ってたのに気づいたら平伏してたと語ってますし伊達宗城在京日記)帝の前で会議をする時などは下がってることもありますが、その場合「垂簾」とわざわざ書いてるぐらいなので、そんなにあがらないものでもなさそうです。京都守護職始末、七年史、孝明天皇紀)

「左近衛権少将源容保でございまする」(52)

容保は家督を継いだ翌年に左近衛権中将になってます。

 

この後、孝明天皇の体格についての記述があるのですが、東久世通禧が後年語った「明治天皇よりもさらに体格が大きい」という談話がもとだと思われます。明治神宮のサイトによると「明治天皇は174センチの鴨居をくぐる時に、ちょっと体を屈められた」ということなので、孝明天皇は180センチ近かったようです。大柄だ、大男だと言われていた坂本竜馬とか久坂玄瑞と同じぐらいだったのでしょうか