京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶応三年一月十五日 > 第二次長州征伐中止に反対する

松平肥後守、松平越中守に命じ、解兵の公布を朝廷に奉請せしむ。肥後守は再征の主張者なれば、解兵の不可を争ひたれども、用いられざるを以て怏々として楽しまず(慶喜公伝3-321)

 

慶喜は、国喪のために長州征伐をとりやめるために、容保の所司代弟定敬を呼んで、長州征伐中止を朝廷に上奏するように命じました。


しかし容保は突然の解兵命令にびっくりして老中の板倉勝静に「いまもし兵を解けば、先帝のご遺志である長州征伐軍を再びおこすことはできなくなります。ご決定はいましばし待ってください」と再三に渡って陳述しますが、慶喜はこれを許しませんでした。(七年史)


容保は邸に戻ると重臣を召して相談します。家老たちは「このような重大な決定を将軍お一人で決めてしまうのであれば、御用部屋の出勤・大政参政の任についているのも、意味がありません。そのうえ使いだけは頼まれるというのは、いったいどういうことでしょうか。しかも解兵とはいっても、いまはわずかに海を隔てて小倉藩が防備をしているだけです。いったいどこの誰に向けての解兵命令でしょう。このうえは先帝の葬礼が終わり次第、任を辞して御国元へ帰られるよりほかありませぬ」と言います。
また「将軍は、自分の主義と合うどこぞの親藩に任を命じればいいのです。会津はあくまで先帝の意志を遵奉し、幕政を補翼しようとするわけですから、かえって将軍大政の障りになりましょう」

 

ちなみにこの「突然」「何の相談もなく」についてなのですが、慶喜公伝のほうで渋沢が説明(反論)しています。我が公と容保は感情も政見もあわないので黙ってた、ということです。いや、合わなくても一応相談したほうがいいと思います。というか、相談しないから言うこと聞かないんじゃ‥‥