京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶応三年二月五日 > 稲葉美濃守の和歌に心が傾いて出てくる

美濃守は筆硯を持来らしめて、携ふる所の扇に一首の和歌を書し、封緘して肥後守に贈らる。
心あひて 結ひし中の友垣を あられぬ風のなと隔つらん
肥後守は心動きて頓て面会せられたり。(七年史15-15)

 

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この後十七日に板倉に手紙を送り、これ以降孝明天皇の葬礼以外は邸に引籠ってでてこなくなりました。
ちなみにこの葬礼は寒い上に雨が降っていたため、容保は風邪を引いて寝込んでいます。

 

そこへ慶喜の命を受けて、弟の京都所司代松平定敬と、老中稲葉美濃守が訪れます。しかし容保はこの二人と会おうともしませんでした。

そこで、美濃守が「筆と硯をお借りしたい」と言って、もっていた扇にさらさらと和歌をしたためて封をし、部屋にいる容保に渡してくれるように家臣に頼みます。部屋に引きこもっていた容保はこの和歌を読んだら心が動いて「お会しましょう」と言って、でてきました。


心が通じ合って結んだ友の仲を、あってはならぬ風が吹いて、二人の心を隔ててしまったのでしょうか

 

そこで定敬と美濃守は、慶喜の言葉を伝えます。
「いま解兵の命令はだすが、長州の一件はいまだ途中である。病気といって肥後守が長く公務から遠ざかれば、自然いろいろな憶測やうわさをよび、それは国家のためにはよろしくないことであるから、病を養い、すみやかに出勤するように」
しかし容保は、将軍の内意は承りましたが、いまだ病気で守護職の任に堪えることはできませんと答えます。

そこで、二人はいろいろと容保を説得して、最後に「万が一辞表をお出しになるなら、突然ではなくあらかじめ教えてください」と言って帰って行きました。