京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(2)

そういうわけなので

(ひと目でも)とおもったが(52)

見えてます。宗城日記によると「中川宮に会った時に、参内しておかみに拝謁する時は平伏するように武家伝奏から言われると思うけど、それでもしっかりおかみの顔を拝んだほうがいいよ!と言われた」とあるので、やっぱり何度考えても見えてたと思います。

 

人々が立ち騒ぎ、容保はながい時間、平伏のまま待たされた。やがて容保のそばに緋の御衣が運ばれてきた。(53)

その場で突然おかみが言い出して、というのではなく

「天盃頂戴ノ御跡ニ而、御拝領物有之候間、少御猶豫被在為候様、御伝言有之」会津藩庁記録)

ということで、拝謁する前に議奏から「天盃の後に何か貰えることになってるので、少し待ってて下さいね」っていう言われていたようです。そしておかみが座をたって御常御殿に戻られた後、容保は小御所の東にある東廂というところに出てそのまま前に進んで、角のところで御衣を拝領しました。(非蔵人日記等)

超えて四日、容保は新年の御祝儀として新鮮な鯛と塩鮭を献上した。(54)

鮮魚を献上したのはほんとです。これは毎月恒例となって、慶応三年の王政復古で京都から追われるように出て行くまで続きました。(七年史、京都守護職始末)毎月御所にお魚を献上するのは代々の京都所司代の習慣なので、たぶんこれに準じたんじゃないかと思います。

「それを残しておけ。晩酌の肴にする」よほど御未練だったののでろう。二度言われた。(52)

容保のシャケ!明治のおわりから昭和にかけてのエッセイスト佐藤垢石の「にらみ鯛」という作品に

水戸家であったか、毛利侯であったか、ある時、塩鮭を伝献申しあげた。(中略)”
ご食事が済み、近侍の稚児が御膳を運び去ろうとした時、御膳の上に、残り鮭の一片があったのをご覧ぜられて”
「これを棄ててはならぬ。朕は晩酌の佳肴とするつもりである」
と、お命じ遊ばされたそうである。(佐藤垢石/にらみ鯛)

というくだりがあるので、元の話はこれだと思います。この本は「おかみはお酒が大好きだけどお金がないから水7にお酒3だった」とか「京都所司代酒井若狭守がおかみの御膳を見てあまりのひどさに驚愕した」とか「和歌を詠みたいのに紙がない」とか例の御所貧乏話が書いてあります。岩倉具視所司代の本多美濃守忠民のところに来て和歌の紙の話をして「御所は貧乏」と打ち明けたみたいなことが書いてあったけど、本多美濃守は安政四年から五年にかけて所司代です。

 

嘉永七年に御所が火事で全焼したのですが、幕府は威信をかけて安政二年に再建してるので、建物だけ立派で紙もろくないというのはちょっと違和感を覚えます。さらに安政四年には孝明天皇の「いいね!」が実現した茶室(聴雪)が閏五月に新築されているので。

 

さっきも書いたのですが、所司代が鮮魚を献上するのは月次の習慣だし、つくり話か、岩倉が話を盛ったのか、このエッセイのしめが「というわけでおかみも不自由なのに頑張ったんだから、自分たちも近衛内閣が言ってる通り質素倹約して頑張ろうね!」みたいな感じなので、太平洋戦争を控えてるから「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」みたいなモノではないかと思います。

「では、こういうことはどうだろう」と慶喜がいったのは、正月十五日のことである。(59)

 場所は二条城で時は正月十五日、この席に容保のほか、春嶽、容堂、宗城がいたことになってますが、春嶽が上洛したのは二月四日(再夢紀事)、容堂は京都についたのは一月二十五日伊達宗城在京日記)なので、この二人はまだ京都にいないです。

この席上、話題が変わって(中略)日頃おだやかな春嶽がまっさきになって幕府の実力行使を主張した。(61)

二月二十四日にこのメンバーで集まって浪士をまとめてとっつかまえましょう!とリストを作って来た春嶽に対し、容保が「このリストには、ただ口で騒いでるだけの人も含まれているので、まとめてやったら井伊殿と同じことになります」と反対して激論になって容堂と宗城が間に入って、和歌で仲直りしました慶喜公伝、伊達宗城在京日記、再夢紀事)という記録があるので、正月十五日ではなく二月十四日だと思います。

 

あと春嶽公は、フレンドリーで社交的な印象なのですが切羽詰まると「もうこうなったら将軍に辞職を迫る!」とか「もうこうなったら勅使の前で切腹してやる!」とか「もうこうなったら全藩を率いて京を武力で鎮圧する!」という数々の発言を残しているので、確かに普段は穏やかなのかもしれないですが「もうこうなったら全員逮捕する!」と言いだしても私は意外な感じはしないです。

おそらく詩人容堂にすれば容保の説よりも(稚気愛すべし)というところを皮肉ったのかもしれず、楽しんだのかもしれない。(62)

 この席上の容堂の発言内容についての記録は見当たらないのですが、会津と土佐は家臣同士のやりとりはなく、あまり仲がいいというわけではなかったけど、容堂と容保は親しむ様子を持っていたようです。

はじめから豊信朝臣とわが公は、交情こまやかな間柄ではあったが京都守護職始末)

 とあったり、七年史では「‥‥だから?」みたいな容堂とのエピソードも載ってるので、藩士から見てもなんだか仲良さそうだったようです。性格とか全然違うのがよかったのかな。そして二人ともお酒好きですし。