京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年一月十八日 – 風邪で寝込んでいたら中根雪江来る

十八日、中根雪江会津侯の許に遣わさる。侯近日病気のよしに面引籠りおられし故、其の病状を尋問せしめられしなり。このとき会津侯中根に面会ありて、近日感冒のため引籠り居けれど追々軽快の運故、明後日は必ず出勤すべし。(続再夢紀事2-357)

明後日二十一日は将軍が参内する日です。それに来られるのかどうか春嶽は心配になって中根をつかわしました。

容保いわく「ここ数日よくなっているので必ず出勤します」とのことです。
またこの日、容保は小野権之丞を春嶽のところにつかわす予定だったところに中根が来たので、容保側の用件を伝えます。

 

「以前、文久改革のひとつで「服装を簡略化する」というのがあったが、江戸ではこれを旧来に戻そうとしているのを、一橋卿がことのほか不満をもっている。議論が起きている。しかし議論のもともとの原因は江戸方が将軍上京に不満を持っていて、ある意味それの言いがかり的なことだ。もともとこの服装の話は江戸幕閣から出た話であり、開国するのでいろいろ大変だから簡略化しようという話だった。しかし現在の国是は鎖国攘夷なわけだから、服装も元に戻すべきですし、将軍上洛ということもありますし、これ以上もめるのはよくないので、一橋卿を説得してほしい。江戸の不満は意外と膨らんでいる。こういう周旋は春嶽侯以外にはできないです」(続再夢紀事)