京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年二月十一日 – 容保、京都守護職を罷め、陸軍総裁となる

二月十一日、幕府はわが追うの京都守護職を罷めさせ、陸軍総裁職とした。越えて十三日、さらに軍事総裁職と改め、左の内命があった。
この度、毛利大膳大夫父子へ御糾問の筋これあり。万一承服せざる節は、御征伐あそばさるべき思し召しに付、その節は副将として遣わさるべく候間、用意致すべき旨、御内意仰せ出され候事。京都守護職始末2-19)

昨十一日、御小納戸溝口飛騨守殿、御使として御出被申候にては、御様礼御親く被為聴召度思召に而御内々御懇に御尋被遊唐銅御火鉢一対鴨一番拝領被仰付候旨被申猶被申候には御面会可致義に候處、追々御快方に被為仰付候御礼仰上候御都合の由(以下略)会津藩庁記録-密京江往返控2-110)

 事の発端はこれです

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先月から何度か内々の会議で話しあいされていた、容保の長州征伐副将と、守護職の交代が本決まりになりました。
まず将軍家より、納戸役の溝口飛騨守が来て、召出したいところだけど、容保が病気だということで、火鉢と鴨などのお見舞いを持って来ました。病状が快方に向かったら、御礼かたがたぜひ公方様に拝謁したいという容保の希望を伝えました。

中将様御深敷御事には不被為入候へども、去月二十八日頃より御風気に而会津藩庁記録-密京江往返控2-109)

病気というのは、一月二十八日より、風邪を引いているようです。
将軍が参内してくる頃も風邪をひいていて、春嶽から「将軍の参内に一緒に来られるのか」と心配して中根をつかわしています。

 

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おそらくちょっとよくなって、参内したり、また悪くなって、またちょっとよくなって関白のところに行ったり、また悪くなっているので、風邪ではなさそうです、長いですし、この後本格的に寝込みます。
容保が守護職を辞めることに関しては、軍事総裁と長州征伐副将のことがもっぱら理由とされています。このこともありますが、朝廷内の長州派公卿が容保を排斥しようという運動が激化し始めて来ていて、これに押された部分もあるようです。慶喜の証言です。

朝廷における長州派は、肥後守守護職になしおきては、万事自己に便ならざるより、春嶽をもってこれに代えたるものにて、予も勢いやむをえず同意したるが、春嶽は主上の御信任薄く、兵力もまた足らざりしかば、間もなく肥後守守護職の復職となれるなり。肥後守を排斥せんことは長州派の希望にして、この後にもしばしばその形跡ありたり。(昔夢会筆記-28)

容保は京都守護職を辞めるにあたって何も意見を言わず、表情にも出さなかったようですが、会津藩士は不平をならしていたということです。春嶽の証言です。

肥後守はいかがかしれざれ共、其家来共に至っては大不平也。(逸事史補-89)