京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶応元年閏五月二十二日 – 将軍参内に合わせて参内する

二十二日、将軍家は入京し、参内された。わが公は先だって参内し、これを迎えた。聖上は小御所に出御あり、将軍家は進んで竜顔を拝し、去年以来、しばしば勅召があったのに、入観の遅緩した罪を謝し奉った。
聖上は親しく恩諭の詔があり、且つ「一橋中納言会津中将、桑名少将は長らく京師にいて、よく人情形勢を知っている。卿はよろしく百事をこの三人に諮詢し、特に長防のことは遺筧なく処理して、朕の意を安んじよ」とのことであった。将軍家は謹んで、これを奉じた。やがてまた御学問所に召され、恩待数刻におよび、その優渥なことは、前年と変わらなかった。(中略)
天がようやく暁になる頃になって退朝された。わが公はつき従って、二条城に詣った。
将軍家は今回の恩眷に対して、感銘の情が辞色にあふれていた。わが公もこれを拝聴して、感泣し「よって長く在坂され、長防の処置を決死、また諸般の革新を成就し、宸襟を安んじ奉らないうちは、誓って東下されることのないように」と梱々と上言した。将軍家は大いに然りとし、老中以下、席につらなる輩も、一人として異議を言うものはいなかった。京都守護職始末2-166)

巳半刻過著衣冠奴袴参仕又関白右大臣尹宮常陸宮内大臣一条九条等両大納言被参会、又一橋中納言会津中将其外武士等参上有。(続愚林記1-237)

九ツ半時比施薬院江被為成。同所玄関上に而御下馬被遊。同畳之上に而松平肥後守、松平越中守御出迎に罷出居。徳川実紀5-225)

 

九ツ半(お昼13時頃)に将軍が施薬院に到着し、玄関で馬をおりました。容保は弟の定敬とともに施薬院内の室内で将軍をお出迎えします。さらに兄の尾張徳川慶勝、そして一橋慶喜も挨拶にやって来ます。それから将軍は食事、お風呂、衣冠に着替えて、陰陽師に祈祷してもらってから勅使を出迎え、深夜0時頃に衣冠に奴袴という服装で将軍が参内します。

 

小御所でおかみに拝謁します。その場には関白(二条斉敬)、右大臣(徳大寺公純)、中川宮、一条大納言(実良)、九条大納言(道孝)、武家からは慶喜や容保が出席しました。

将軍が京都に来るのが遅くなったのをおかみに謝罪すると一会桑がいるから大丈夫だよと言われて、そのあと学問所で去年と同様楽しく歓談しました。

 

吉田陰陽師頭罷出御身固申上候徳川実紀

とあるのですが、身固とは陰陽道の呪術で、健康にする呪法です。魂が体から離れないようにします。これまでの家茂参内の記録には載ってないので、参内する時のしきたりというより、この時に家茂公の体調が悪かったと思われます。