京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶喜が阿片を処方された時期について

司馬遼太郎さんの著作「胡蝶の夢」で「元治元年に慶喜神経症を発症したので、松本良順がアヘンを飲ませたら寝た」というエピソードがあるのですが、かなり大胆で面白いお話なので実際あったはずなのに慶喜側の資料慶喜公伝、昔夢会筆記)には何も書いてない。松本良順の資料(松本順自伝)には書いてあるけど日付がまったく書いてない。

 

胡蝶の夢慶喜が阿片を処方されるまでの流れは

慶喜はずっと開国派で、江戸にいた頃から春嶽と論争して、文久三年一月に上洛してからも、公卿とやりあってきたのですが、時代は攘夷。みんな攘夷!攘夷!と言うばかりで「じゃあやってやるよ!」と叫んで江戸に帰った。ところが元治元年、島津久光主導でだんだん朝廷に開国派も増えてきて、開国ムードが漂う。慶喜としては「ラッキー!でも横浜鎖港の使節がフランスに一応行ってるから、こいつらが帰ってきてから本格的に議論を始めよう」という状態だったのですが、老中とか将軍が「去年は長州に負けて攘夷、今年は薩摩に引っ張られて開国なんて恥ずかしい。鎖港の使節も送ったんだし、幕府としては攘夷ってスタンスを崩さず攘夷って言ってよ!」と言いだして、慶喜は春嶽や久光と対立してまで、本心とは違う攘夷論で論争しなければならなくなりました。

 

そういうことで神経をやられたというのですが、確かに元治元年に二度目の上洛をした慶喜はこういった状況にありました。


ですが、胡蝶の夢では元治元年となっている(そしてさらに良順の自伝ではなくて、良順の伝記という史料の方でも元治元年となってる。良順の史料は自伝と伝記があるのです。ややこしい)けど、元治元年だと松本良順自伝の内容とどうしても辻褄があわない、おかしいことがいくつか出てきます。

 

そこで慶喜が阿片を処方されたのはいったいいつなのか検証してみようと思います。

 

【松本良順自伝】
1 京都在勤の大監察岡部駿河守から手紙「後見職がおかしくなったから来て!」
2 松平春嶽に従って品川沖から順同丸で出発
3 京都について、すぐに慶喜の宿舎・東本願寺に入る
4 アヘンを処方してすっかり治った
5 将軍はまだ来てないので、一か月ぐらい暇だった

 

慶喜の滞京
文久三年一月五日 – 文久三年四月二十二日
文久三年十一月二十六日 – 慶応三年十二月十二日

 

【将軍の滞京】
文久三年三月四日 – 四月二十一日
元治元年一月十五日 – 五月六日
慶応元年閏五月二十二日 – 閏五月二十四日

 

まず5で「将軍が来るまで一か月ほど暇だった」ということなので、将軍入京の日付から一ケ月を引いてみます。

 

【候補】
文久三年二月四日
文久三年十二月十五日
慶応元年五月二十二日

 

【検証】文久三年二月四日
○1 大監察岡部駿河守は滞京しています。
○2 春嶽は文久三年一月二十二日、品川から順同丸で出発。二月四日入京。(続再夢紀事)
○3 慶喜文久三年二月四日、京都にいて東本願寺を宿舎にしている。東本願寺史料、慶喜公伝)

 

【検証】文久三年十二月十五日
△1 岡部駿河守は作事奉行です。どこにいたか分からない。
×2 春嶽は二度目の上洛は越前福井から出発しています。(続再夢紀事)
×3 春嶽は十月十八日に着京。この時は慶喜はまだ京都にいないです。(続再夢紀事)

 

【検証】慶応元年五月二十二日
△1 岡部駿河守は神奈川奉行です。どこにいたのか分からない。
×2 春嶽は越前福井にいます。(この前日、中川宮と容保の手紙を届けに会津の広沢安任が訪ねて来てます。春嶽に上洛を促す手紙です)(続再夢紀事)
×3 当時の慶喜の宿舎は東本願寺ではなく小浜藩邸です。東本願寺史料、慶喜公伝)

 

ということで、春嶽に従って入京したということで、良順は文久三年一月二十二日に江戸を出発して二月四日に入京し、数日内に診察したほうが自然な感じがします。

 

東都アロエ(慶喜と幕末についてのブログ)さんによると、良順と岡部駿河守は非常に親しい間柄なので、岡部駿河守からの手紙で呼ばれた話を間違えるはずがないということで、岡部駿河守に呼ばれたのが確定だとすると、もう文久三年二月しか考えられない感じです。そのほかに春嶽とか順同丸とか品川沖という重要な固有名詞がでてきてますし「将軍が来るまで一カ月間暇だった」という記述もあり、これらが全て符合するのは、文久三年二月です。

 

仮に記憶がごちゃまぜになっていて「一度目の上京は確かに春嶽と一緒に品川から船で文久三年二月四日だったけど、阿片を処方したのは元治」だとすると、将軍の典医が意味も無く将軍の上京よりも一か月早く京都に行くのはちょっと妙です。

 

そうなると、岡部駿河守が江戸に手紙を送る等のタイムラグを考えると、一月中旬には慶喜神経症になっているのですが、慶喜が江戸に入ったのは一月五日なので、発症するのがあまりにも早いので、もともと江戸での論議でだいぶ神経が弱っていたのかもしれないです。

 

二月四日は容保が慶喜に言路洞海について相談しに来たり、京都についた春嶽が来てます。五日は容保が春嶽を訪れて「これから慶喜のところに一緒に行って議論しよう」と言うのですが、当時春嶽は発熱していたので、それを断ってます。(続再夢紀事)会津の記録には無くて春嶽側の記録なのでその後どうなったのか分からないですが、慶喜側の記録では鷹司関白邸に行っています。慶喜公伝)そのあとは慶喜会津藩、春嶽、宗城、安達清風(因州鳥取家臣)の記録に慶喜が出て来なくて、次に出るのが二月九日の攘夷期限を迫られ緊急会議なので、治療は二月六日 – 八日の間ではないかと思います。

 

ちなみに春嶽と良順が京都についてからの慶喜の動き
【二月四日】
・春嶽、良順の訪問を受ける(続再夢紀事)

【二月五日】
・鷹司関白邸を訪れる慶喜公伝)

【二月六日】
・見当たらない

【二月七日】
・午後、慶喜のお兄さんの因州鳥取池田慶徳が、東本願寺慶喜のところにいる武田耕雲斉を呼ぼうとして使いをやったら「今日は都合が悪い」と断られる。(安達清風日記)
・断りの返事に対して「じゃあ明日こっちから行く」と返事。(安達清風日記)
池田慶徳慶喜に手紙を出す。「おとといの五日に、三条実美のところを訪れたこと」「風気って聞いたけど大丈夫だよね?」鳥取池田家文書)
慶喜が返事を出す。「おとといの五日に、鷹司邸に行ったこと」「大丈夫です」鳥取池田家文書)

【二月八日】
・ 早朝、池田慶徳慶喜を訪問する(安達清風日記)

 

■二月七日、慶喜池田慶徳は互いにおとといの五日の話をしてるので、慶喜池田慶徳は五日と六日はまるで連絡しあってないらしい
■二月七日、慶喜が「もう大丈夫」と言ってるので、七日は阿片を飲んで寝て起きた後?
(二月七日の「じゃあ明日こっちから行く」を慶喜は結局断らず、八日に池田慶徳慶喜を訪問してるし)
■二月七日の手紙に「風気」とあるが、風気は風邪気味の他に「腸内にガスがたまる」という意味もある。
■松本順自伝に、阿片を飲んで起きた後の慶喜に「下剤をすすめた」という一節がある。
 良順が処方した下剤は「ヤラッパ」「甘汞」。
 甘汞は下剤、腸の消毒に使用される薬(水銀が入っているため現在は使用されない)
 ヤラッパはキニーネ等とともにオランダからもたらされた下剤。
 ヒルガオ類の根で、下剤の中でも最も強力な「峻下剤」分類される。
 処方されて翌日に効果が出たというより、数時間内に効果が出た可能性が高い。
 (小腸性下剤は服用してから2 – 3時間後に効果が出る。ヤラッパは小腸性下剤に分類される)


■武田耕雲斉が「主は風気」と言ったらしい、ということで、七日の午後はまだ風気=阿片を飲んで起きたあたり。

 

ということで、文久三年六日に阿片を飲み、七日の午後13時半に起きて下剤を飲み、武田耕雲斉は因州に「主は風気」と回答し、因州は「風気は大丈夫だよね?」と慶喜に聞き「大丈夫です」と慶喜は答えた、と推測しました。

 

が、ここで問題になるのが良順自伝に「旅装も解かずに慶喜に拝謁した」という一節があります。なので四日に阿片飲んで五日の昼に起きて、下剤を飲んだ後に頑張って鷹司邸に行った可能性も考えられます。