京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(3)

この場の容保にとっては必要ではない。(67)

足利木像梟首事件です。大庭恭平がもどってきて「それがしがやりました」って言うシーンです。容保クール。七年史によると「そなたの罪は今、糺すべきではない」と言ってお金をあげて、つまり「逃げよ」ということですが、大庭恭平は仲間にことが漏れたことを伝えて一緒に捕まります。捕まったときに詩をよみました。

「心なき 野辺の花さえあはれなり 今年限りの 春と思えば」(七年史)

同じ司馬遼太郎の「幕末」という本に収録されている「猿が辻の血闘」という小説ですと、大庭恭平はこのあと姉小路公知を襲って自害したことになってますが、会津戊辰戦史に大庭恭平の名前がいくつか出てきますので猿ヶ辻の血闘は創作ということになります。

 

あと大庭のことを慶喜と春嶽が知ってとての気の毒に思って「それは可哀想だな、なんとかしてやりたい」と言い、町奉行(たぶん永井尚志)も「大塩平八郎とかいう、善人過ぎて暴走した人っていたよね?」と言って解放してやりたいと言いますが、容保は断じて聞かなかった。頑固ですが、筋が通らないからっていうことでしょう。やったことはやったこと、という。逃げろとお金あげたんですけど、捕まったならもうしょうがないって話ですね。

ところがこの密命が浪士らに漏れた。(68)

ですので「漏れた」のではなく京都守護職始末によると与力の平塚瓢斎に「しらせた」とあるので、内通みたいな感じみたいです。内通というか平塚は安政の大獄のときに処分された反井伊派で、つまりどっちかというと尊王攘夷派なので、浪士とお友達です。そこでお友達の世古格太郎に教えたみたいです。

 

世古格太郎 容保が京都守護職を拝命したときに、京都の内情を探りたいけど公家と姻戚関係がないため、人づてに三条実美を紹介してもらって、そのつながりで勅使待遇改善の依頼を受けて改善して、初参内のときに御衣を拝領したのですが、実美を紹介してくれた人です。

 

京都守護職始末も七年史も挿絵らしき挿絵はないのですが(史料としての絵とか写真はあるけど)なぜかこの木像梟首事件だけ手描きの挿絵があります。よほどびっくりしたのでしょうか。どっちにも同じイラストで、守護職始末に「七年史の絵です」って書いてあります。

右近衛権中将(70)

左近衛です。なぜここが違うのか。

十数名だけが、自発的に京に残った。(71)

新撰組のことはほとんどテレビと小説以外では知らないのですが、このあと王城の護衛者のなかで資料として引用されてる軮掌録によると「二十四人」で、京都守護職始末では「二十数人」です。

 

覚えてる限りだと、近藤、土方、沖田、永倉、原田、藤堂、井上、芹沢、篠原、新見、平山、野口?と思ってwikipediaで見てみたら、二十四人だった。軮掌録の通りでした。

 

そのなかでも気になったのが根岸友山さんという人です。「伊勢参りに行く」と言って脱走した後に討幕論者になり、幕府が倒れると酒盛り、近藤を批判して吐血論という本を書いたということですが、伊勢参りに行く、と言った時点で切腹させられそうなものなのですが、させられなかったということなので、これ以降は脱走というより自由行動的な印象です。吐血論というタイトルがすごいですね。吐血て。地元では友山まつりが開催されてるそうなのですが、すごいですね。吐血。

帝の攘夷論には具体性がなかった。異人を獣であると信じておられた。(76)

このくだりは、慶喜が後年インタビューに答えた昔夢会筆記にほぼそのまま載っています。

「先帝の真の叡慮というのは(中略)外国の事情や何か一切御承知ない。昔からあれは禽獣だとか何とかいうようなことが、ただお耳に入っているから(中略)犬猫と一緒にいるのは厭だとおっしゃるのだ」(昔夢会筆記)

ということなのですが、孝明天皇が外国人はおばけとか動物と思う元となったとされてる慶喜のお父さん、水戸斉昭公なんですけど、妹が当時の関白鷹司政通の奥さんということでいろいろ「ペリーなんていうのは、大根が食べたいって言うんであげたところ、真っ二つに折って泥がついたまま生でむしゃむしゃ食べたんですよ、あいつら動物と同じです」という手紙を出したとかいう話なのですが、春嶽によるとある時、斉昭が近寄って来て「攘夷なんていうのは到底無理なんだよ慶永くん。自分はもうこの年だし、攘夷の頭として担ぎあげられているからこのままいくしかないけど、君はまだ若いんだから攘夷なんて馬鹿みたいなこと言ってないで開国しちゃいなさい」と言った(逸事史補)ということなので、果たして斉昭がどこまで外国人を変なふうに言ったのか。孝明天皇が本当に動物と思って嫌がっていたのかどうなのか。

帝は攘夷論のなりゆきから、これをついつい承諾されたが(80)

高崎佐太郎が伊達宗城に語った話によると、高崎佐太郎は中川宮に拝謁して孝明天皇のお考えを聞きました。すると「お気持ちはお進みあそばされなかったが、三条実美を始めとする過激派公卿が強訴し、無理矢理乱暴に、二十六日にご進発と取り決めた」伊達宗城在京日記)ということで、なりゆきでついついうっかりというより、強引に押し切られたということです。孝明天皇の気持ちがすすまないのを見て、二条斉敬などが諸大名を召して会議で決めたらと提案したけど却下されました。

屋敷に戻ると、たまたま、会津藩の小室金吾と小野権之丞がきていた。(86)

松平容保に「将軍呼び戻せ」の命令が出て、それは違勅だから!会津頼みだから!の宸翰がくだるシーンです。七年史によるとたまたま来ていたのは小野権之丞で、小室金吾の名前は見えないです。京都守護職始末会津藩庁記録守護職小史には誰が運んだかの記述が無く、頼みの小野権之丞日記は文久は二月で書くのやめてるー!近衛家文書にもなかったので、分からないです。

 

松平容保とは編集