京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(4)

驚いて家老の横山主税、神保修理田中土佐らが出てきた。(88)

二度目だけど、家老は神保内蔵助利孝です。修理は息子です。

古来、天子から武家に御直筆の宸翰がさがったというような例はない。(88)

宸翰というか、御製はかつて島津斉彬にくだってます。安政二年、一月二十八日、この時も近衛忠煕を介しているのが面白いです。

 

史談速記録によると「前年の安政元年の春に斉彬が京都に行って、近衛忠煕に拝謁して、何かいろいろと国事のことを話し合い、この時に秘かに忠煕を介して帝に奏上したらしく、それが当時帝が深く悩んでいたことに関連していて、帝が大変喜んでくだされた」ということです。そのときの御製がこれです。

「武士も こころあはして秋津すの 国はうこかす ともにおさめむ」(孝明天皇紀)

松平容保にくだした秘密の御製でももののふと心を合わそうとしてましたが、これらからも孝明天皇がいかに公武一和を望まれていたのか、本当によく伝わって来ます。孝明というわけで宸翰じゃないけど御製は安政二年にあるのです。

孝明天皇島津久光を頼りにしていて、容保に内緒の依頼をする前に久光にして「こういうことやめてくれます?」みたいな返事もらってしょんぼりなさってましたが、薩摩への信頼の歴史は長いのですね。

最後に、孝明天皇はいった。
「朕は会津をもっとも頼みにしている(以下略)(90)

この文章は容保にあげたほうじゃなくて、近衛前関白にあげたほうの宸翰の内容です。京都守護職始末、七年史)

 

容保にあげたほうには「江戸に下向させるのは自分の本当の気持ちじゃないから、今後も偽勅が出ると思うけど、このことを忘れずによく考えて行動してほしい」という、やんわりとした文章で、最後に「とはいっても、自分が不自由な思いをしているとそなたは知れば、なんかしたい!って思うだろうけど、事態が動かない間はうまいことバランスをとって決して極端な行動に出ることはないように」と書いてあります。

 

「朕は会津をもっとも頼みにしている(以下略)」とか手紙出したら、容保は情熱を傾けてしまいそうですから、過激派の勢いがいい今そんな激しい行動に出たら会津が大変なことになるので、容保に見せたのは柔らかいほうだし最後に「でも燃え過ぎないように」と、宥めているので、孝明天皇は優しいと思います。本当の気持ちは近衛前関白だけに伝えておいてあるところが、いいですね。

というわけなので

かといって容保はどうすることもできない。目の前で革命の進むのを見つつ、どんな手をうつこともできなかった。(93)

というより孝明天皇がときが来るまで動くなと言っているので、本当に「いまだ!」っていう時機がくるのを見計らっていたのではないか?と思います。

この帝にゆるされたわずかな発言範囲のなかで
「わしに望みがある」
と、廷臣にはかった。(95)

望みというのは会津の馬揃えの儀なのですが、私は最初、因州と備前の兄弟たちが言いだしっぺだと思ってました。

なぜなら因州と備前は長州の大和行幸に反対していて、なんとか止めたいと思って久光を呼ぼうとしたり、朝廷に押し入って「会議させろ!会議でNG出すから!」とか叫んだりしてたからです。

 

が、真木和泉が作った大和行幸プランに馬揃えがあったので、どっちかというとこっちが先で、それを口実に因州と備前が企画して、話が会津になっていったっぽい気がしています。

 

真木がつくった大和行幸の計画書はとても詳細で、軍の具体的な構成とか(帝の馬廻りが何人とか、旗本は何人とか)銃器等の供給元とか、兵士の服装、布地の色、公家の服装、留守をまもる女性たちの服装から、おそろしいことに錦旗まで考えていました。「日月を書き候」って言ってます。

 

司馬遼太郎の「加茂の水」で玉松操がデザインしたことになっているのですが、すでに文久三年に真木が具体的に書いてたのです。真木の計画はまず長州の毛利公に出されて毛利公がオッケー出したので、当然長州藩士で主だった人は呼んでいると思います。なので玉松操が文献をあたって一からデザインしたというのは、私は本当にそうなのだろうか?と疑問を感じます。

 

真木和泉は計画の中で、公家たちが戦に慣れるために馬揃えをするのがいいと提案していました。馬揃えを見るのは床几でもあれば十分で、なるべく野戦っぽい臨場感ある感じで、とか規定してて、すごいです(五事建策)

当日は、雨である。このために予定は流れた。翌二十九日も雨であった。三十日もやまない。(96)

二十八日が雨だった時点で、三十日に順延することになっていました。理由は雨があがっても地面がぬかるんでいて足場が悪いだろうという理由です。(七年史、孝明天皇紀、安達清風日記)というわけで

午後二時になって雨はあがった。御所から、よろしかるべし、との使いがきた。

三十日に馬揃えが開催されたのは、孝明天皇側の命令ではなく、過激尊攘派(大和行幸派)によるたくらみです。

 

足場が悪いときに馬揃えをやらせて、少しでもミスがあればそこを叩いて松平容保守護職罷免させようという筋書きでした。会津が問い合わせたのではなく「雨の場合は順延」と最初から決まっていたところに突如「馬揃えをおこないなさい」という、許可ではなく命令がくだりました。

 

会津側は何度か「時間も遅く、雨が降っている」と順延したい旨を奏上するのですが、孝明天皇が見たいというから、ということで「人数が少なくてもいいからとにかく今日やること」と言われて、急きょ馬揃えが行われました。(七年史)ちなみにたくらんだのは轟武兵衛です。天気は安達清風の日記によると雨です。

 

馬揃えが開始されたのは午後四時からでした。また、あまりに急だったので、当日警護する役目である因幡備前岡山も大慌てで準備を始めました。(安達清風日記)

この練兵の命がくだったとき、容保は大砲小銃の空砲をうつことを願い出た。(96)

一度問い合わせたのですが「憚りあり」とゆるされず、これを知った会津藩士たちは「こんなのが怖くて御親征って?」と笑ったそうです。(七年史)家臣に皮肉を言わせたのではないです。小説では

「ニ、三発なら(97)」

という回答がでたことになってますが、初回は大砲小銃は結局うつことはできませんでした。

 

二回目の馬揃えの命令がくだった時に、容保は一緒にやることになった因州藩主の池田慶徳と示し合わせて「空砲をうたせてもらいましょう」と話し合い、うっていいことになりました。(七年史)

容保の本陣からは帝の表情まではみえなかったが(97)

表情が見えないというか、この時は御簾が下がってました。建春門の北のあたりに二階建ての建物をつくって、その上階が帝の御座所です。(七年史)御簾が垂れていて、さらに上部に紅白の幔幕がかかってました。ただ、二回目の馬揃えの時に帝が興奮して御簾がひらっとわずかにあがり、帝のお顔がちら見えしたので会津藩士は感激したそうです。守護職小史)

なお温明殿の上の天に残照が残っていた。(99)

温明殿という建物は平安内裏にはありましたが、当時の御所(安政内裏)には存在しないです。内侍所という意味であるならば、内侍所はあったのですが、温明殿という建物はないです。

故例によって(中略)武装のままとされていた。容保は陣羽織のみ脱ぎ、風折れ烏帽子に鎧を着用し(99)

御車寄せで帝に拝謁した時の服装は、緋縅の鎧の上に恩賜の陣羽織、烏帽子、金装の太刀という服装でした。脱いだのは兜で、陣羽織は着たままです。(七年史)

容保は、拝領の御衣を戦袍に仕立てなおし、鎧の下に着ていた。(100)

御衣の陣羽織は鎧の上に着ていました。

秋月は、黒谷に近い町家の離れを借りて下宿していた。(104)

当時秋月が住んでいたのは、黒谷近くではなく繁華街の真っただ中といえる三本木です。(七年史、守護職小史)他藩や公家と付き合う公用人なので、都の中心から離れている黒谷近く下宿をとったら不便です。

あとの工作は、政治巧者の薩摩人にまかせるしかしかたなかった。(103)

八月十八日の政変のくだりですが、このあと薩摩の高崎佐太郎と、秋月、広沢富次郎、大野英馬などの公用人が一緒に中川宮のところにいって、工作をはじめます。政変は一度十五日に中川宮が孝明天皇に上奏しますが、失敗します。

 

理由は中川宮が決心がつかずにもたもたしている間に三条実美たちが出勤してきてしまったからです。予定では中川宮は早朝出勤して天皇に決心して頂くことになってました。(七年史、京都守護職始末、伊達宗城在京日記)

 

政変の失敗を知った高崎佐太郎のところの若い過激な性格の人が「もう中川宮のところに自分がいって、直接怒鳴りつける!」みたいなことを言いだすので、佐太郎は慌てて「まあまあ」と宥めながら、お酒を飲みに行きました。その間に秋月や広沢が二条斉敬らの賛同をとりつけて「今ならいけます!と高崎のところを訪ねてくるので(七年史、伊達宗城在京日)薩摩主導で会津はおまけとか、武威だけを利用されたみたいな感じとはちょっと違うと思います。

松平容保とは編集