京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

王城の護衛者を史料と一緒に読んでみる(5)

その夜、帝の寵姫である三位保実のむすめが、ひそかに御所をぬけ出た。(105)

八月十八日の政変のくだりです。若い娘が?創作だね!と思ってたのですが

十六日の夜、帝は宮媛に宸翰をもたせて中川宮のところへ使いとして出した(七年史)

ということなので、媛という文字で表すべき若い高等女官が使いとして出されたのはホントってことです。史実だった!三位保実のむすめさんかどうかは私の持ってる史料では分からなかったです。三位保実という人は帝の侍従で、八重の桜の八重が同志社作るので最初に屋敷を借りてボロボロでしたが、あの屋敷のオーナーです。

 

勅語を申し上げます(以下略)」(106)

宸翰を持たせたとのことなので伝言ではなくお手紙です。

容保は、感激した。さらにこの男には、事態を処理するのに彼にとって幸いなことがあった。(中略)その交代の藩兵が到着したばかりであった。(106)

実は交代は十一日に終わっていました。帰ったのは馬揃えで第一先鋒だった井深茂右衛門、第二先鋒の内藤近之助の組ですが

左太郎ト相識者ナシ此日初テ悌次郎ヲ尋来リ此ノ大事ヲ謀ル其決心(中略)十四日交番ノ人数ノ還ルヲ止ム(鞅掌録)

十三日に高崎佐太郎が来て、薩摩と同盟することを決めた会津は、この急騎をつかわして呼び戻しました。なので、運よくニ千人だったのではなくはっきりとした意思をもって兵力を「ニ千人にした」のです。

薩摩藩の(中略)幕末におけるその後の主導的地位は、この夜から出発したというべきであろう。会津は単に利用された。(106)

これは「ノン!」と言いたい。


八月十八日の政変にいたる経緯としては、まず十三日に同盟が成立し、十三日の夜に会津は帰りかけている藩士を呼び戻します。(鞅掌録)

しかし十六日の朝に高崎佐太郎と中川宮の工作が失敗します。中川宮の決心が固まらず、もたもたしていたのが原因です。(昨夢紀事)ちなみに中川宮は後日帝の痔のせいにしてました。

 

この時点ではまだ会津の交代藩士は戻って来ていないです。これで薩摩藩士の若いある人が怒りだして「こうなったらもう、三条実美のところに突撃するしかない!」とか言い出したので、高崎佐太郎は宥めるために「まあ飲みにでもいこう」とお酒を飲みに出かけます。伊達宗城在京日記)

 

薩摩の高崎らがお酒を飲んでいる間、会津の公用人大野英馬や広沢富次郎(安任)らは、中川宮や二条斉敬たちのところを走り回り、周旋し続けます。このあたりの描写では、七年史や鞅掌録では高崎も動いていたように書いているのですが、後日高崎佐太郎ご本人が伊達宗城に語った話伊達宗城在京日記)によると、高崎は「三条に突撃する!」とキレてる若者を連れてお酒を飲みに行っていたということなので、どうも会津藩士がある程度動いて手ごたえを感じたあたりで高崎に連絡したんじゃないかと思います。

会津公用人たちは二条斉敬へは「殿下は畏れながら、大化の改新中臣鎌足のご子孫であらせられますれば」という春嶽みたいな台詞まで持ち出しました。(七年史)十六日の夜か十七日の朝ぐらいに会津交代の藩士たちが京都に戻って来て、兵力がニ千人になりました。

 

十六日、実は帝は政変よりももっと力技を望んで、会津と因州による武力をつかった政変というよりもクーデターを望みました。(七年史)しかし中川宮や二条斉敬が「万が一失敗したら、会津と因州が賊になるから、武力は積極的に使うべきではない」と進言します。因州の名前が出たのは、因州はもともと大和行幸反対のために動いていたのと、馬揃えも会津とともにやったから「武力なら因州も」というイメージだったのではないかと思います。危うく薩摩は大損するところでした。

 「十七日の夜、主上、御寝あそばされず」と、女房日記にある(107)

 というので、押小路甫子日記を読んでみました。押小路甫子は大御乳人という命婦です。


「十七日、今晩寅の刻、中川宮さま御参内にて御前を御願いになられた。それより会津所司代が来る。六門外を固めよと仰せつけられた」ということは書いてあって、寝ないで待ってた旨は分からなかったですが、寅というと三時なので、寝なかったのかもです。ちなみにふと少し前あたりを読んでみたら「十五日、帝は清涼殿におでましになって月を御覧になりながらお酒を楽しまれた。わたしたちも月を見た」なんかこう、御所はのんびりしてますね。

 

いっぽう大内侍の中山績子日記は「ご機嫌がいい」しか書いてありませんでした。しかも「十六日、十七日、ご機嫌がいい」とかまとめてるし。十八日はさすがに「朝早くから中川宮や摂家が来た。容易ならざる感じだったのでご機嫌だけ伺って早々に退出した」と書いてあります。