元治元年九月六日 > ご洗米を下賜される
わが公は、さきに病を勉めて宿衛して以来、日夜心身を労することが多かったが、特に七月十九日以降は、あるいは徹宵すること数夜に及び、あるいは庭上に露営するなど、すこぶる労苦をきわめた。このゆえに、事変が鎮定するに及んで、病はとみに重きを加えた。(中略)六日、殿下はまた家臣を召し、「主上は内侍所に出御あって、容保の疾病平癒を祈らせ賜い、その洗米を下賜された。但し、このことはごく内々にすべし」とのことであった。(京都守護職始末2-110)
六日夜、二条関白殿より急使を以て肥後守が家臣を召されければ、小野権之丞はいそぎ参殿しけるに、関白殿は権之丞を召して、叡旨を伝えさせ給う。其言に曰く
「主上は深く肥後守が病患の為に叡慮を悩まし給いて、御自身、内侍所に於いて、御祈祷遊ばされ、而して供物の洗米を内贈給うとの勅命なり。宜しく毎日これを服用して、聖旨に従い奉るべしと、官位四位中将に過ぎざるの武臣にして、此の如きの大典を賜るもの、古今を通じて、其の例あるを聞かず。人臣の至栄というべし。肥後守は此恩命を拝して、恐懼感泣すること殆んど児女の如し。一藩の精神、く皇室に献ぜんと期せしは蓋し此時なるべし。(七年史9-25)
容保はもともと禁門の変の時も具合がとても悪かったのですが、戦が起きて庭に宿営したり、徹夜したりして、ものすごく具合が悪くなりました。
そこで、それを憂いて孝明天皇から以下の勅書が、二条関白と中川宮にこっそりつかわされます。
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元治元年六月二十七日 > 容保、駕籠のまま武家玄関から参内する
二十七日、わが斥候が、長州藩士が襲来の気配あることを九条河原の営に報告した。それで、黒谷の本営に急を告げた。
わが公は病をおして、本隊と内藤、生駒、一瀬等の隊を率い、家老一瀬を従えて清所門から参内した。禁裏附の糟谷筑後守が勅旨を伝え、特に武家玄関前まで駕籠をいれることをゆるされた。やがて伝奏衆から、所労のところをおして参内、叡感ななめならず、よろしく宸儀咫尺のところにあって守護し奉るように、との詔をたまい、凝華洞に兵営をあてがわれた。(京都守護職始末2-68)
容保は即時参内せんとするも、病重くして行歩心に任せず、侍臣等に命じ、病床にありて上下を着されけり。折柄老女鳴尾は、三方に勝栗、昆布を乗せて参らせたるはいと殊勝の振る舞いとぞ覚えし。付随の人はみな甲冑襯衣の上に羽織を着けて、槍を携え、家老一瀬要人もまた従う。(中略)蛤御門番所に暫く休息して、公用人を遣わして、非常の警報により所労の處おして参内仕ると、伝奏にしらさしめければ、伝奏の命により清和門より参内せられけり。(中略)内御玄関まで乗駕苦しからずとの朝命を伝えられければ、恩命に従い奉りて、内御玄関にて下乗しけり。筑後守またきたりて、御庭内まで乗駕許さるるよしを告げけれども、肥後守は恐縮して従わず、辛うじて天機を候し奉りしに(中略)勅命ありて、御花畑貸渡しになりて、肥後守はその夜より移りて凝華洞に仮寓しけり。(七年史8-30)
宸儀咫尺 宸儀は帝の身体。咫尺は高貴な人の近くに侍ること。帝の近くにあるように、ということで凝華洞を貸与されました。
長州藩兵に開戦の意があることが判明したため、容保は病床で寝たままの状態で家臣に着替えをしてもらうと、駕籠に乗ります。道中は一瀬要人が容保の駕籠の左側についていて、時々ご機嫌を伺っていました。当日の蛤御門の警備は山田隊です。(会津藩庁記録元治1-735)随行する藩士たちもまた甲冑姿で槍を持ち、老女鳴尾は勝栗に昆布という、出陣の三献の儀式を用意し、臨戦態勢で御所に向かいました。
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文久三年十二月十三日 > 容保、大さわぎして身支度する
十二月十三日、夕八つ時出門施薬院にて会津侯の許に到らせられ、それより参内ありて、夜九つ半時、帰館せらる。この日宮中において長藩井原主計より差しだしたる書面を下附せられ、意見を尋ね下されしか、参内諸侯方には該書面御収受の上は井原には帰国すべき旨、命ぜられてしかるべきかと内決せられど、なおまた来る十六日に参内上答すべしと御沙汰ありしゆえに上答には及ばれず退朝せられたり。(続再夢紀事-280)
十二月十三日、八時宮より下総橋越より使者参後刻趣によ参内被仰出可申故、施薬院へ集まり居候様との事。即刻共揃申付候事、八半時着、衣冠出門。
七半時過只今一同可致参内肥後守方へ伝奏衆より被仰越候事同人俄かに身仕舞大さわぎ候之六過参内如例。
天機奉伺候末、小御所御廊下にて宮二近御父子徳御逢庵原主計を以長より差出候書付為御見所存御尋に付、明日外之者共申合度旨、一橋より申上御承知にて談合済候はば、十六日午後参内にて可申上入組候事に候はば十五日宮へ出可申上との御返事之。(伊達宗城日記-271)
長州藩は、家老井原主計を上洛させて、入京しての嘆願の機会を請願させていました。これはその三回目です。
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文久三年九月一日 > 攘夷勅使のお供として江戸に行くようとの勅命
九月朔日勅命ありて、有栖川熾仁親王を攘夷別勅使とし、大原三位重徳を副使とし、松平肥後守容保に随行を命ぜられけり。是より先八月十九日、攘夷迅速成功すべしとの御沙汰ありしかども、関東より何等の奏聞も無りしかば、朝廷は松平備前守茂政、松平相模守慶徳に、関東に趣き督促せよとの命令ありしかばども、両侯は固く其使命を辞せられければ、更に監察使を下さるべしとの議あり。肥後守容保は憂苦措く事あたはず、親書を閣老に贈らんが為めに、家臣安部政治を関東に遣はして一橋中納言慶喜の上京を促されしが、未だ其事成らずして、遂に此命あり。(七年史-第六-1)
八月十八日の政変の翌日、攘夷を!という勅命をしたのに幕府からは何のリアクションもないので、朝廷は池田茂政(備前岡山藩主、慶喜の弟。半年前に池田に養子にはいったばっかり)と池田慶徳(因幡鳥取藩主、慶喜の異母兄)に江戸に行って督促せよと命じたところ、二人は「絶対に嫌です!!!」と言うので、じゃあ監察を遣ろうとかいう話が出ました。容保はどうしよう、と憂いた挙げ句に親書を老中に送り、家臣の安部政治を江戸に走らせて慶喜に上京を促しましたが実現しなかったため、このような状況になりました。
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