京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

文久三年十二月十三日 > 容保、大さわぎして身支度する

十二月十三日、夕八つ時出門施薬院にて会津侯の許に到らせられ、それより参内ありて、夜九つ半時、帰館せらる。この日宮中において長藩井原主計より差しだしたる書面を下附せられ、意見を尋ね下されしか、参内諸侯方には該書面御収受の上は井原には帰国すべき旨、命ぜられてしかるべきかと内決せられど、なおまた来る十六日に参内上答すべしと御沙汰ありしゆえに上答には及ばれず退朝せられたり。(続再夢紀事-280)

 

十二月十三日、八時宮より下総橋越より使者参後刻趣によ参内被仰出可申故、施薬院へ集まり居候様との事。即刻共揃申付候事、八半時着、衣冠出門。
七半時過只今一同可致参内肥後守方へ伝奏衆より被仰越候事同人俄かに身仕舞大さわぎ候之六過参内如例。
天機奉伺候末、小御所御廊下にて宮二近御父子徳御逢庵原主計を以長より差出候書付為御見所存御尋に付、明日外之者共申合度旨、一橋より申上御承知にて談合済候はば、十六日午後参内にて可申上入組候事に候はば十五日宮へ出可申上との御返事之。伊達宗城日記-271)

 

長州藩は、家老井原主計を上洛させて、入京しての嘆願の機会を請願させていました。これはその三回目です。

 

 

十三日、小御所で会議が開かれました。議題は長州家老、井原主計による請願(三回目)について、入京を許して請願させるかどうかです。

 

メンバーは慶喜容保、春嶽、宗城。中川宮、二条斉敬、近衛前関白親子、徳大寺公純

 

中川宮が慶喜、春嶽に施薬院の容保のもとへ集まるようにしらせ、慶喜と春嶽が宗城に知らせたようです。


おそらくなのですが、この種の御所の会議となると大名には武家伝奏から召集をかけないといけないのですが、四人のところにまわるのは大変だし時間も遅くなるので、合理主義の中川宮が、ほかの三人に御所に一番近い容保の施薬院に会議一時間前に集合するように伝え、四人揃ったところに武家伝奏を派遣し、そこから容保が身支度をして参内すればいい(宗城の記録を見ると、参内の支度は一時間あれば十分のようです)と考えたのではないかと思います。

 

が、のんびりしていたところに突然衣冠姿の三人が現れ「御所に参内して会議するから」と言われ「えっ‥‥?」とびっくりしてる最中にまた武家伝奏も来て「参内せよ」とか御沙汰を伝えてきて、自分は平服のままなので、一時間後って言ってるのになんか容保はわあああー?!となって大さわぎして身支度しました。

 

春嶽の話によると「書面を受け取るけど、井原は帰国させろ」と決したけど、十六日に改めて奏上することになった。
宗城によると、一橋慶喜が「他の諸侯にも聞いてみたいので十六日に参内して改めて奏上することにしたい」ということで、少し違いますが、結局のところ本決定は十六日に延期ということです。