京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年

元治元年二月十一日 – 容保、京都守護職を罷め、陸軍総裁となる

二月十一日、幕府はわが追うの京都守護職を罷めさせ、陸軍総裁職とした。越えて十三日、さらに軍事総裁職と改め、左の内命があった。この度、毛利大膳大夫父子へ御糾問の筋これあり。万一承服せざる節は、御征伐あそばさるべき思し召しに付、その節は副将と…

元治元年一月十八日 – 風邪で寝込んでいたら中根雪江来る

十八日、中根雪江を会津侯の許に遣わさる。侯近日病気のよしに面引籠りおられし故、其の病状を尋問せしめられしなり。このとき会津侯中根に面会ありて、近日感冒のため引籠り居けれど追々軽快の運故、明後日は必ず出勤すべし。(続再夢紀事2-357) 明後日二…

元治元年四月十五日 > 家茂よりお見舞いの使者

御小姓頭取木村紀伊守殿、御使を以従公方様、左之御直書丼御脇息壱、ギヤマン壱、御煮染五品入 御拝領被遊御用人及応対御礼如例取計候由、右御書内蔵助被召出候節、御下遊江戸会津へ申遣之御使者 御口上之趣 密事往返控ニ有之 不調之時令昨今之容躰、如何哉…

元治元年八月四日 > 池田屋の報奨金を下賜される

六月六日浮浪の徒、洛内へ聚屯不容易企有之候節、早速人数差出悪徒共召捕切捨、鎮静に及候段、速御聴候、右は兼々御守衛筋厚被相心得家来へ申付行届候故之儀と、一段之事に御沙汰に候。(七年史9-36) すみやかに、というか随分前のことについて報奨金がでま…

元治元年九月六日 > ご洗米を下賜される

わが公は、さきに病を勉めて宿衛して以来、日夜心身を労することが多かったが、特に七月十九日以降は、あるいは徹宵すること数夜に及び、あるいは庭上に露営するなど、すこぶる労苦をきわめた。このゆえに、事変が鎮定するに及んで、病はとみに重きを加えた…

元治元年六月二十七日 > 容保、駕籠のまま武家玄関から参内する

二十七日、わが斥候が、長州藩士が襲来の気配あることを九条河原の営に報告した。それで、黒谷の本営に急を告げた。わが公は病をおして、本隊と内藤、生駒、一瀬等の隊を率い、家老一瀬を従えて清所門から参内した。禁裏附の糟谷筑後守が勅旨を伝え、特に武…

元治元年七月十日 > 容保、悪口を張りだされる

昨日十日朝、堂上今城殿裏門に左之張紙有之由。(風聞集-69) 六月二十七日、会津斥候が長州藩士襲来の気配あることを受けて、容保が病中に駕籠に乗ったまま御所に参内したことが、悪い噂になっています。

元治元年一月四日 > 参内して新年の賀を上る

四日、肥後守容保は参内して新年の賀を上ること、前年に同じ。(七年史7-1) 一月四日、わが公は参内して新正を賀し奉り、物を献上した。竜顔を拝するなど、去年の例の通りである。(京都守護職始末2-3) 四日・依御沙汰午刻参内。今日は御番且年頭御祝儀に…

元治元年一月九日 > 春嶽邸で会議

九日、松平肥後守入来年史申置。後日挨拶使遣。(議奏加勢備忘1-120) (九日、夕八ツ時より一橋殿会津殿宇和島殿島津殿当邸に集会せらる。この日は茂昭公にも御同席なりき。さて御相談ありしたい略は、会津侯を征長副師に、春嶽公を守護職に、島津殿を幕議の…