京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

元治元年六月二十七日 > 容保、駕籠のまま武家玄関から参内する

二十七日、わが斥候が、長州藩士が襲来の気配あることを九条河原の営に報告した。それで、黒谷の本営に急を告げた。
わが公は病をおして、本隊と内藤、生駒、一瀬等の隊を率い、家老一瀬を従えて清所門から参内した。禁裏附の糟谷筑後守が勅旨を伝え、特に武家玄関前まで駕籠をいれることをゆるされた。やがて伝奏衆から、所労のところをおして参内、叡感ななめならず、よろしく宸儀咫尺のところにあって守護し奉るように、との詔をたまい、凝華洞に兵営をあてがわれた。京都守護職始末2-68)

 

容保は即時参内せんとするも、病重くして行歩心に任せず、侍臣等に命じ、病床にありて上下を着されけり。折柄老女鳴尾は、三方に勝栗、昆布を乗せて参らせたるはいと殊勝の振る舞いとぞ覚えし。付随の人はみな甲冑襯衣の上に羽織を着けて、槍を携え、家老一瀬要人もまた従う。(中略)蛤御門番所に暫く休息して、公用人を遣わして、非常の警報により所労の處おして参内仕ると、伝奏にしらさしめければ、伝奏の命により清和門より参内せられけり。(中略)内御玄関まで乗駕苦しからずとの朝命を伝えられければ、恩命に従い奉りて、内御玄関にて下乗しけり。筑後守またきたりて、御庭内まで乗駕許さるるよしを告げけれども、肥後守は恐縮して従わず、辛うじて天機を候し奉りしに(中略)勅命ありて、御花畑貸渡しになりて、肥後守はその夜より移りて凝華洞に仮寓しけり。(七年史8-30)

 

 宸儀咫尺 宸儀は帝の身体。咫尺は高貴な人の近くに侍ること。帝の近くにあるように、ということで凝華洞を貸与されました。

 

長州藩兵に開戦の意があることが判明したため、容保は病床で寝たままの状態で家臣に着替えをしてもらうと、駕籠に乗ります。道中は一瀬要人が容保の駕籠の左側についていて、時々ご機嫌を伺っていました。当日の蛤御門の警備は山田隊です。(会津藩庁記録元治1-735)随行する藩士たちもまた甲冑姿で槍を持ち、老女鳴尾は勝栗に昆布という、出陣の三献の儀式を用意し、臨戦態勢で御所に向かいました。

 

鳴尾 蘆沢鳴尾。会津藩奥祐筆で、凛々しく美人。おそらく当時は四十五、六歳の女性です。後に新英学校女紅場(京都府女学校)の書道教諭になって、山本八重子と一緒に勤務することになります。

 

蛤御門の番所内で休みつつ、公用人を伝奏につかわし、非常の警報のために参内するということを伝えます。伝奏は帝の意向を伺い、病躯であるならば清所門から入り、武家玄関まで駕籠のまま乗りつけてよいと伝えます。そのあと御附武家筑後守(糟谷義明)がやってきて「御庭内まで駕籠」を伝えると容保はそれについては恐縮して、武家玄関に回りました。

 

「御庭内まで駕籠」というのは、あまりに畏れ多いと言うことで、武家玄関に周ります。そこで駕籠を降りて「麝香之間に伺候し、武家伝奏野宮」慶喜公伝3-58)づてに「凝華洞を貸与する」という勅旨があり、その夜からそこを仮の宿営としました。

 

麝香之間 将軍が参内した時に祗候する部屋。

 

まずこの当日中山忠能正親町三条実愛は「守護職、朝制を蹂躙する」と騒ぎ立てますが、二条関白は相手にしませんでした。慶喜公伝3-58)が、この帝の気づかいがが、後に悪い噂になってしまいます。

 

続いて、御所の仮建で長州の処遇についての会議が行われました。関白鷹司輔煕は常御殿の御小座敷で孝明天皇と対面しています。押小路甫子日記)そこへ逐一会議の様子が知らせられてきたと思われます。容保は当然、討伐を主張します。しかし長州系公卿正親町三条実愛は「長州藩主親子を御所に呼び出し、帝のお考えを伝えて諭せばいいのではないか」と言いだします。藩主は一人で歩いて御所に来るわけがありませんので、要するに長州藩の兵士を入京させよということです。なんと老中稲葉美濃守がこれに賛同したため、会議はほぼこの意見に決しそうになりました。

 

しかし!そこへ、遅れて参内してきた慶喜が颯爽と反論します。

 

「大兵をおこして洛外に迫るのは、まるで君臣の分を理解していない。これを許して御所に入れるなど言語道断。洛外にとどめたまま、説諭するべきである。もし長州親子の一人でも京都に入れるなら、自分も守護職所司代も、職を辞して帰るまでであるッ」

慶喜のかっこいい台詞に、朝廷のみんなは愕然として、それまで勢いがよかった長州系公卿は黙りこんでしまいました。そこへ帝からの言葉が伝えられます。

 

八月十八日の一挙は、関白以下の矯勅にあらず。全く朕が意に出てたり。長人入京の儀は、決して宜しからず 

 

この帝の言葉で会議は決し、各人退出しましたが、時はすでに翌日、二十八日の朝五時となっていました。慶喜公伝3-59)どうでもいいことなのですが、この時初めて慶喜は御所でお菓子を食べました。「一橋初之御く和し出ス 」押小路甫子日記)

 

稲葉美濃守 稲葉正邦。淀藩主。二本松藩から養子に入った。八月十八日の政変の時は京都所司代であり、容保とともに深夜参内して政変成功に寄与したが、何故深夜参内するのか聞いてなかったからなんで参内するのかわかんなかったけど参内した。鳥羽伏見の際は老中として江戸城にいのに国の家老が勝手に新政府に内通したため微妙な空気になった。