京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

四賢侯、伊達の殿さま – 伊達宗城在京日記

伊達宗城の日記はものすごい面白いです。

 

 

何が面白いのかというと「なんとか日記」って書いてあってもあんまり細かく書いてないとか、ちょっと書いてほったらかしとか、細かく書いてあるけどあったことを淡々と書いてるとかだったりですが、宗城の日記はとても詳細です。こまめにメモってたのか、家臣がメモったのか、本当に細かい。そして政治に関係する重要事項以外の、割とどうでもいいような日常が書いてあるのが本当にいいです。

 

容保が初参内した日、文久三年一月二日に宗城は学習院に挨拶に行ってるのですが、前日になって宗城は狩衣がないことに気づきました。公家に会うには狩衣は必須です。

 

「無いっていうか、注文したんだけど間に合なかった」

 

宗城は京都で政治的活動をするために12月21日には確実に京都に入っているのですが、そのあいだ何をしていたのでしょうか。というか国元からなぜもってこなかったのでしょうか。四賢侯って何でしょうか。

 

「服がないので病欠します」

 

朝廷に連絡を入れたところ狩衣はこちらでお貸ししますと言われて

 

「ラッキー」

 

服装についてはいまいち把握しきれないのですが御所は基本的に衣冠か束帯。直衣を着たい場合は勅許が必要(関白とか。あと慶喜も後見職時代に、容保兄の尾張大納言も直衣勅許貰ってた)。どうやら御所以外の朝廷系の建物は狩衣・直垂・大紋で、幕府の建て物なら狩衣以外の、麻裃でもオッケーみたいです。慶喜の宿舎の東本願寺に勅使が来た時は大名たちは麻裃か狩衣、二条城に勅使が来た時も大名たちは麻裃で会ってました。

 

初参内。宗城公は自分の順番を待ってるあいだ「時間がかかりそうなので、紫宸殿とか清涼殿を見学したいんですけど」と言いだし、武家伝奏の野宮が「あっちのほうは掃除とか御正月の飾りつけとかもしてないんですけど、それでもよかったら」とガイドしてくれることになり早速見学しました。

 

・二条城に初登城した時も見学
・待ち合わせ場所の、慶喜の宿舎の東本願寺に早めに着いちゃった時も慶喜をガイドに東本願寺を見学
・大名が大勢御所に集まることになった時、一番乗りだったので誰も来ないうちにこっそり口向き(台所とか)を覗いて女中を覗き見た。
・御所の舞楽に招待された時、帝がおわすところは幔幕が張ってあったのにちょっと切れてるところから中を覗いて見た。

 

何かと見たいようです。

 

あと御所の女官が大好きらしく「女官の緋袴っていいよね」とか「おかみが退出した後も女官は残っていたね」とか。参内したときに女官が百人ぐらいずらっと並んでこっちを見てたらしいのですが、それを「いつもあること?」とわざわざ御所の役人に聞いて「いや、ああいうことはかつてないです。貴方がたを見たかったみたいですよ」と言われてよほど嬉しかったのか後日日記に赤で書き加えている始末。

 

容堂と仲良しで最初の頃は二人で京都で酒ばっかり飲んでいました。本当に。四賢侯って何でしょうか。「明日は公武一和のために頑張るぞ!」と日記に書いたあくる日の日記

 

「今日は容堂と二人で酒を飲んで大笑い」

 

島津久光(お互い馬が大好き。今で言うと車の話で盛り上がる的な)と一緒に相撲を見に行く約束したので島津のとこに行ったら突然春嶽が「来ちゃった!」ってことで三人で相撲を見に行って、その帰りに近衛前関白邸に行ってお酒飲んでたら二条斉敬徳大寺公純がアポなしで乱入してきて舞ったり飲んだり楽しかったそうです。

 

「これって公武合体?」

 

四賢侯って何でしょうか。

 

宗城日記は容保とか会津とは、だいぶ違う雰囲気で、なんとなく伊予宇和島のおだやかな天候や土地柄が伝わって来ます。そして宗城の等身大の目線から見た大名たちはなんだか、親しみが湧いてくる感じで、大名の日常がいきいきと伝わってきて、伊達宗城在京日記はとっても楽しい日記です。