文久三年八月十四日 > 容保、藩士を桑名から呼び戻す
十四日、交番の人数の環るを止む。四隊交番を以て守衛とし、家老神保内蔵助番頭、長坂平大夫、加須屋左近、坂本学兵衛、その組士を率いへ次き遂て着京し、井沢茂右衛門、内藤近之助等之に代て帰る。来る者は八日より着し往く者は十一日より帰る。時に世上の甚だ安からざるを以て急飛を馳せて之を環らしむ。先なる者は桑名より環り来りて人数合わせて八隊となる。糸屋破却の事等有るか故に人も亦怪しむ者なし。(鞅掌録-522)
会津・鹿児島ニ藩、連合して親征ノ事ヲ阻止セントノ議成リ、会津藩主松平容保、退京帰藩ノ途ニ就ケル藩士井深茂右衛門・同内藤金之助率イル藩兵ヲ其途上より召還シ、再ビ輦下非常ノ警衛ニ当タラシム。(維新史-543)
会津藩士の交代は四隊ずつで、新規の隊は八日に来ていて、交代の藩士(二隊。隊長は井深茂右衛門・内藤金之助)は十一日に京都を出発して会津に帰っている途中でした。先頭は桑名まで帰っていたのを、急飛脚をとばして呼びもどしました。
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元治元年九月六日 > ご洗米を下賜される
わが公は、さきに病を勉めて宿衛して以来、日夜心身を労することが多かったが、特に七月十九日以降は、あるいは徹宵すること数夜に及び、あるいは庭上に露営するなど、すこぶる労苦をきわめた。このゆえに、事変が鎮定するに及んで、病はとみに重きを加えた。(中略)六日、殿下はまた家臣を召し、「主上は内侍所に出御あって、容保の疾病平癒を祈らせ賜い、その洗米を下賜された。但し、このことはごく内々にすべし」とのことであった。(京都守護職始末2-110)
六日夜、二条関白殿より急使を以て肥後守が家臣を召されければ、小野権之丞はいそぎ参殿しけるに、関白殿は権之丞を召して、叡旨を伝えさせ給う。其言に曰く
「主上は深く肥後守が病患の為に叡慮を悩まし給いて、御自身、内侍所に於いて、御祈祷遊ばされ、而して供物の洗米を内贈給うとの勅命なり。宜しく毎日これを服用して、聖旨に従い奉るべしと、官位四位中将に過ぎざるの武臣にして、此の如きの大典を賜るもの、古今を通じて、其の例あるを聞かず。人臣の至栄というべし。肥後守は此恩命を拝して、恐懼感泣すること殆んど児女の如し。一藩の精神、く皇室に献ぜんと期せしは蓋し此時なるべし。(七年史9-25)
容保はもともと禁門の変の時も具合がとても悪かったのですが、戦が起きて庭に宿営したり、徹夜したりして、ものすごく具合が悪くなりました。
そこで、それを憂いて孝明天皇から以下の勅書が、二条関白と中川宮にこっそりつかわされます。
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元治元年六月二十七日 > 容保、駕籠のまま武家玄関から参内する
二十七日、わが斥候が、長州藩士が襲来の気配あることを九条河原の営に報告した。それで、黒谷の本営に急を告げた。
わが公は病をおして、本隊と内藤、生駒、一瀬等の隊を率い、家老一瀬を従えて清所門から参内した。禁裏附の糟谷筑後守が勅旨を伝え、特に武家玄関前まで駕籠をいれることをゆるされた。やがて伝奏衆から、所労のところをおして参内、叡感ななめならず、よろしく宸儀咫尺のところにあって守護し奉るように、との詔をたまい、凝華洞に兵営をあてがわれた。(京都守護職始末2-68)
容保は即時参内せんとするも、病重くして行歩心に任せず、侍臣等に命じ、病床にありて上下を着されけり。折柄老女鳴尾は、三方に勝栗、昆布を乗せて参らせたるはいと殊勝の振る舞いとぞ覚えし。付随の人はみな甲冑襯衣の上に羽織を着けて、槍を携え、家老一瀬要人もまた従う。(中略)蛤御門番所に暫く休息して、公用人を遣わして、非常の警報により所労の處おして参内仕ると、伝奏にしらさしめければ、伝奏の命により清和門より参内せられけり。(中略)内御玄関まで乗駕苦しからずとの朝命を伝えられければ、恩命に従い奉りて、内御玄関にて下乗しけり。筑後守またきたりて、御庭内まで乗駕許さるるよしを告げけれども、肥後守は恐縮して従わず、辛うじて天機を候し奉りしに(中略)勅命ありて、御花畑貸渡しになりて、肥後守はその夜より移りて凝華洞に仮寓しけり。(七年史8-30)
宸儀咫尺 宸儀は帝の身体。咫尺は高貴な人の近くに侍ること。帝の近くにあるように、ということで凝華洞を貸与されました。
長州藩兵に開戦の意があることが判明したため、容保は病床で寝たままの状態で家臣に着替えをしてもらうと、駕籠に乗ります。道中は一瀬要人が容保の駕籠の左側についていて、時々ご機嫌を伺っていました。当日の蛤御門の警備は山田隊です。(会津藩庁記録元治1-735)随行する藩士たちもまた甲冑姿で槍を持ち、老女鳴尾は勝栗に昆布という、出陣の三献の儀式を用意し、臨戦態勢で御所に向かいました。
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