京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

慶応三年四月二十八日 – 慶喜からお見舞い

二十八日、大将軍は侍医香雲院に命じて肥後守が疾を訪はしめられければ、香雲院は帰りて其病状を言上しけり。(七年史15-44)

 

将軍慶喜は、御典医の香雲院に命じて、容保の病状を拝診させました。香雲院は診察だけして、帰ってから慶喜に病状を伝えます。将軍は板倉周防守を通して会津公用人に「肥後守がよいならば、香雲院に命じて薬餌を処方させよう。が、強いて病を治せとは言わない」つまり、ゆっくりやすみなさいということなのです。容保はその配慮を喜んで、薬を処方してもらい、日に日に軽快に向かったそうです。

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元治元年四月十五日 > 家茂よりお見舞いの使者

御小姓頭取木村紀伊守殿、御使を以従
公方様、左之御直書丼御脇息壱、ギヤマン壱、御煮染五品入 御拝領被遊御用人及応対御礼如例取計候由、右御書内蔵助被召出候節、御下遊江戸会津へ申遣之御使者

御口上之趣 密事往返控ニ有之

不調之時令昨今之容躰、如何哉。朝夕心配致候。療養無油断何分にも気力引立一日にも早く快復之上是迄之忠勤不空様、為国家祈處候。猶委細側向より可申聞候事。
卯月十五日     (花押)         会津中将との会津藩庁記録-軍事総裁戦中御達丼伺控-139)

 

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文久三年四月十一日 > 石清水行幸、発駕

十一日、攘夷叡願の事を以て石清水社に幸す。孝明天皇紀157-6)

 

四月十一日五つ過、御表くし御児にて言上有。御清き御湯めされ御下はかまにて朝餉へ出御成。行幸の御もよふし御ふく高くらのかみへ新内しのかみわたさる。常御所下段にてわたさるる。御するすると五つ過南殿へ出御成。劔新内しのかみ璽内侍御無人に付、権すけのかみなり。供奉伊予のかみ丹波のかみなり。母屋御す 大すけのかみ御す 関白はなり。御するすると御機嫌よく五つ過行幸成。
いなりの社御小休。城南宮にて御中食。淀姫社の御旅所にて御小休。八幡下院にて御束帯めされ て馬場殿代豊蔵坊へ著。御戌の刻過著御後御機嫌よくおするするとなり。
御留守中、二条右府は中務卿宮は御留守に御参り。
丑の刻、御拝御するするとの御事言上あり。(長橋局日記)

 攘夷祈願の石清水行幸が発駕しました。


容保は喪中(美濃高須の実父、松平義建文久二年八月二十日)だったので、加茂行幸と同様、参列は憚りました。

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文久三年八月十四日 > 容保、藩士を桑名から呼び戻す

十四日、交番の人数の環るを止む。四隊交番を以て守衛とし、家老神保内蔵助番頭、長坂平大夫、加須屋左近、坂本学兵衛、その組士を率いへ次き遂て着京し、井沢茂右衛門、内藤近之助等之に代て帰る。来る者は八日より着し往く者は十一日より帰る。時に世上の甚だ安からざるを以て急飛を馳せて之を環らしむ。先なる者は桑名より環り来りて人数合わせて八隊となる。糸屋破却の事等有るか故に人も亦怪しむ者なし。(鞅掌録-522)

 

会津・鹿児島ニ藩、連合して親征ノ事ヲ阻止セントノ議成リ、会津藩松平容保、退京帰藩ノ途ニ就ケル藩士井深茂右衛門・同内藤金之助率イル藩兵ヲ其途上より召還シ、再ビ輦下非常ノ警衛ニ当タラシム。(維新史-543)

 

会津藩士の交代は四隊ずつで、新規の隊は八日に来ていて、交代の藩士(二隊。隊長は井深茂右衛門・内藤金之助)は十一日に京都を出発して会津に帰っている途中でした。先頭は桑名まで帰っていたのを、急飛脚をとばして呼びもどしました。

 

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元治元年八月四日 > 池田屋の報奨金を下賜される

六月六日浮浪の徒、洛内へ聚屯不容易企有之候節、早速人数差出悪徒共召捕切捨、鎮静に及候段、速御聴候、右は兼々御守衛筋厚被相心得家来へ申付行届候故之儀と、一段之事に御沙汰に候。(七年史9-36)

 

すみやかに、というか随分前のことについて報奨金がでました。もう禁門の変の報せも届いてる時期なのですが、長州が賊徒だと確定したから報奨金が出たっぽいように思います。報奨金の金額は千両で、このうち六百両を新撰組に、残りを関係の士卒に配布しました。

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慶応元年十月七日 > キレた中川宮を宥める

松平肥後守参る。令対面候處、過日之一件断申す仍而コレマテ偽り実に不相済旨申す。且大樹胡服著様城外乗廻し如何マッタク彼告朔ヲ請候モ同様急度相改大樹之首ヲハネ天下ニシヤスヘク実ニニガニガ敷次第実ニ恐入候次第急度昨夜申入候通り急々取計候様申置。朝彦親王日記1-437)

 

慶応元年十月五日に条約勅許がおりました。

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