京都守護職 松平容保の資料まとめ

幕末の会津藩主松平容保について京都守護職時代の記録のまとめ。徳川慶喜、孝明天皇についても。

孝明天皇崩御に関する記録まとめ

中山績子日記(孝明帝の典侍
【十二月十一日】
おかみはご機嫌よく。内侍所(祈祷するところ)でお神楽がある。おかみは午後二時頃潔斎のために沐浴された。
御神楽は夜二十二時に終わり、おかみは深夜二時過ぎにご就寝。

※績子の日記のはいつも「おかみの今日のご機嫌」から始まる。
これ以降、中山績子の日記は数カ月に渡って記載なし。
中山績子は孝明帝の父の代からの典侍で当時六十歳超、績子の父親は孝明帝の祖父光格天皇の側近中の側近。

 

 

中山忠能日記(娘慶子が孝明帝の側室で明治天皇の生母)
【十二月十一日】明け方より雨
内侍所で臨時のお神楽があった。
【十二月十五日】
十一日に主上は風邪気味だったところにお神楽をご覧になり、それ以来発熱して具合が悪くなったので、十二日に医師の高階が診察して薬を処方したが汗が出ず、十三日になっても熱が一向に下がらず、発汗もなく、夜も眠れず、食べ物も食べられず、ただうわごとをおっしゃって苦しまれている。
十四日、天然痘もしくは陰性疫(天地の気の乱れや陰陽不順による邪気が体内に侵入した)ではないかとの診断。
主上はお風邪を引くこともなくご壮健な方なので、思ってもみなかったことに驚く。
【十二月十七日】
おかみは天然痘ということだ。
おとといから手に発疹が出て、昨日よりお顔にも発疹が出て、今朝は足にも腫れ物あり。
しかし今朝からお顔の色もよく、ただとにかく夜眠れず、お食事もできない様子で、吐き気が強い。
ただ昨日はお湯を口になさって、便通もあり。
二十一日に予定されていた御常御殿のすす払いは延期だそうだ。
【十二月二十一日】
慶子より書状が来る。おかみの天然痘の御様子は順調とのことで、大変悦ばしいことだ。
皆がおかみのお見舞いに人形を買うので、人形が品切れになっているそうだ。
(宮中に仕えている)藤谷某が天然痘にかかり、七十五日経過したので参内したところ、おかみがその跡が多く残った顔(天然痘の跡)を恐ろしいとお思いになられ、そういう時におかみも天然痘にかかられた。なぜすぐに(藤谷某に)おそばから退出するよう仰せにならなかったのか。恐ろしいとお思いになりながら我慢なさったその詳しいところは分からないが、大事に及んだ今はそのことを遺憾に思う。
【十二月二十四日】
慶子より書状が来る。おかみの回復は順調で、夜も御寝あそばされたとのこと。
【十二月二十五日】雨
慶子からの書状によると、えづきが強く何も召しあがられず御容態がよろしくないとのこと。
夕方内々におかみの御容態を伺ったところ、よろしくないとのことで、ただただ驚き、苦心千万。
【十二月二十六日】曇り時々雨
明け方慶子より手紙が来る。昨夜戌の刻(二十五日十九時)崩御されたとのこと。二十歳頃に帝位についてから(乱世であって)御心痛続きで一夜たりとも安心してお休みになられたことがなかったおかみを想うとただただ悲嘆の涙が流れる。
【十二月二十八日】
「二十五日後ハ御九穴より御脱地実以恐入御容体之由」
二十五日の夜のおかみの御容態は、両目、両耳、両鼻孔、口、後陰、前陰より出血されたという。実に恐れ入ることである。

和宮降嫁に協力して過激派公卿に責められ失脚した経緯は岩倉と同様。
禁門の変では有栖川宮親王とともに長州を支持をして孝明帝から処罰される。
孝明帝崩御後に復帰し、明治天皇に討幕の密勅を出させる。
忠能の日記の孝明帝の病状経過の記述が詳しいのは、娘慶子からの手紙による。

 

朝彦親王日記(中川宮。孝明帝の側近)
【十二月十四日】
おかみは頭にまで発疹ができて、風疹の御様子。
【十二月十五日】
おかみはよほど病が重い様子で、十三日からご飯も食べられず夜も眠れないとのこと。
【十二月十六日】
(おかみの担当医)高階を呼んだところ来た。おかみの御容態は(以下、読めなかった‥‥)
【十二月十七日】
おかみの疱瘡の症状が治まってきたとのこと。
【十二月十八日】
おかみのご機嫌伺いに鯛を一折。
【十二月十九日】
内々にこっそりお見舞いにお人形一箱と鯛一折進呈する。
【十二月二十二日】
おかみの御容態は二十日から二十一日まで、少しながらよろしくなって、食欲もあり召しあがっているとのこと。よかった、よかった、よかった、よかった。
1日置きぐらいにおかみのご機嫌をうかがおうか。もっとも真正面ではなく非蔵人口に。
【十二月二十四日】
おかみの御容態はおしずかだということで、とってもとってもとってもよかった。
自分の代わりに清浄華院金剛寺に容保を使わす。
【十二月二十五日】
おかみの御容態を伺わないとは、関白以下は不人情ではないかと言ったところ「そうですね‥‥」という返事が来た。
(ただし関白二条斉敬は十二月五日に息子、十三歳と二十二日に息子、三歳を亡くしている)

中川宮の日記というのは毎日緻密に書いてある。備忘録のように、箇条書きで一つ一つの文章は短く、基本的に自分の感情は書かず事実を淡々と書いている。中川宮は孝明帝の父の仁孝天皇の養子で、孝明帝の義兄にあたる。中川宮の実父は孝明帝の祖父の養子に入っているため、親子二代に渡って天皇家と結びつきあるため、おかみに対しては身内意識の様子。毎日毎日御所に詰めて見るからに心痛甚だしく素直に心配憂慮する容保とは正反対に、こっそり心配しているのが印象的。

 

土山武宗日記(和宮降嫁の時に随行したらしい)
【十二月十八日】
「御疱瘡御治定ニ付御祝酒吸物魚等被下但当番詰合諸役所被下」
おかみはの症状が治まってこられたので、当番で御所に詰めてた諸役人にお祝いのお酒やお吸い物が下された。
守護職がお見舞いに来たので、伺公の間にお通しする。連日続いた。
将軍のお使いとして板倉勝静が来て、医師よりおかみの御容態を聞いていた。

 

松平容保京都守護職始末より)
【十二月十八日】
松平若狭守が急使をつかわしてきて、おかみの体調を伝えてきた。
容保はびっくりして馬を駆って御所に急行したところ、天然痘との診断だと聞いた。
そこで御所の門の警備を強めて、日々参内しておかみの御様子をうかがう。

(七年史より)
【十二月十九日】
「容保は恐懼端坐してほとんど枕席を退く」
容保は(帝への敬意と回復の祈願のため)姿勢を正して正座してほとんど寝ない。

 

医師差出候御容態書(カルテ)
【十二月二十日】
朝6時頃 おかゆを小さいお茶碗一杯
朝9時前 お湯とお粥
夜19時前 お粥を半分ほど
夜23時前 お粥を半分ほど
【十二月二一十日】
御容態は変化もなくお静か。
【十二月二十二日】
朝8時 葛湯一杯、唐きび団子三つ召しあがる
朝9時 唐きび団子五つ
朝10時 お粥一杯
昼14時頃 唐きび団子七つ
夕16時 お粥一杯
夜21過ぎ 干し飯一杯
夜0時前 お粥半分と大根おろし少々
【十二月二十三日】
朝5時過ぎ かたくりのお菓子をお湯に浸したのを茶碗に1つと半分
朝7時頃 干し飯一杯
朝8時頃 らくがんをお湯にひたしたのを椀に1つ・もろこし6粒
昼12時過ぎ 白粥をお椀一杯
夕方17時頃 白粥をお椀に半分
朝から症状はとても落ち着いていらっしゃる。
お薬は三回服用された。
【十二月二十四日】
夜0時 葛湯をお椀に一杯
早朝4時 干し飯をお椀に一杯
朝7時過ぎ 干し飯をお椀に一杯と半分
昼13時過ぎ お粥を御茶碗に八分目
夕方16時過 干し飯をお椀に一杯
夕方18時 干し飯をお椀に半分
二十二日からどんどんご順調にご回復され、膿も排出され終わり、ご機嫌もよくおなり遊ばされている。
【十二月二十五日】
発熱がまた始まり、夕方より頻繁にえづき、干し飯を二度、お粥を一度召しあがられたが、とにかく吐き気がお強いため、千金内托散を差し上げ、鎮嘔散を調薬仕ったところ、少し吐き気がおさまったご様子だが、どうもお身体の具合が悪い様子。
どうも体内の毒素が排出されないでいると診たて、調薬掛の任汪氏が解毒飲を献じた。

千金内托散:各種の化膿症の膿の消散、痛みの緩和、排膿促進。

 

非蔵人日記(御所の雑用掛)
【十二月二十一日】
慶喜、容保、定敬を連れてお見舞いに来る。
皇后もお見舞いに来る。

 

嵯峨実愛日記(正親町三条実愛。薩摩系討幕派公卿)
【十二月二十一日】
おかみが天然痘にかかったが高階などの医師が診察したり、護浄院の僧正が祈祷した甲斐あったようで、幸い順調に回復されているということを聞いた。全快されることを祈るのみ。皇后様や将軍や諸侯がお見舞いに行って魚やら人形やらを献上したとのこと。

 

野宮定功日記(武家伝奏
【十二月二十五日】
多少お疲れの様子だったが、容態は順調に回復していた。
が、今日になると、発病以来吐き気が時々あったが、今は何も吐かずえづくのが増え、痰が増えて、食事も食べられず、ほとんど衰弱されていて、医師などがいろいろ施したが、脈がかすかになり、手足が冷たくなり、ついに大事に及んだ。
文久三年から、愚昧の自分が議奏を御勤めさせて頂いて依頼、比類なき御愛親をもって内外の秘密の用をを隠すことなくご指示頂き、厚恩を蒙ったことが夢のように思いだされて、今はもう、ただ慟哭するよりほかは無い。

孝明天皇崩御後は、中川宮に辞表提出を迫る等して変心する。

 

押小路甫子(大御乳人)
【十二月二十二日】
おかみはごきげんがよい。
会津所司代より人形、九条より人形、准皇后より人形、将軍より人参のお見舞い品あり。
【十二月二十三日】
将軍より人形三箱、本願寺より人形一箱
会津所司代より人形三箱のお見舞い品あり

大御乳人は長橋局の部下で奥の事務を取り締まる仕事なので、御見舞品に関する記述が多い。この後数カ月日記の記述なし。御見舞い品に人形が多い。中山忠能の日記に「人形が品切れになっている」とあったが、これを見るとその理由がよく分かります。

 

 

天然痘】メルクマニュアルより
天然痘患者の約10%に,出血型または悪性型の変種が発生する。出血型はよりまれで,より短く激しい前駆症状の後に全身性紅斑ならびに皮膚出血および粘膜出血が起きる。5〜6日以内に一様に致死的となる。
出血性痘瘡
アレルギー体質の人におこる。初期症状が激しい。前駆疹は全身にまわり出血して紫斑病のようになる。鼻血、口腔出血、血尿、血便。早ければ3〜4日で死亡。